【随縁随意】麹菌研究を振り返って-尾関 健二
生物工学会誌 第99巻 第11号
尾関 健二
麹菌研究と初めて出会ったのは、24歳の時に日本酒メーカーの研究所で「乾燥麹」のテーマを貰ってからである。麹の酵素活性を毎日のように測定し、酸性カルボキシペプチダーゼ活性をニンヒドリン反応後、比色法で定量するのだが、当時は手袋もなく指先が紫色になり、毎日の通勤電車で他の乗客に気づかれないようにしていた記憶が残っている。この研究は、今だから話しても問題ないと思うが、アメリカ工場で「乾燥麹」にして日本に輸入し、日本酒造りのコストダウンにつなげようというものであった。しかしながら、当時の食糧管理法に触れる可能性あるということでこのストーリーはストップになった。その後、国内の醸造資材メーカーが「乾燥麹」を商品とし、意味のある研究だったと気が付いた。
35歳から2.5年間、当時東京にあった国税庁醸造試験所(現酒類総合研究所)に出向し、麹菌の分子育種技術を勉強する機会に恵まれた。ここでの経験については、研究やその成果よりも、各先生や、同じく醸造メーカーからの出向者、研修生の方々との人脈づくりの印象が深い(他の役割も担っていたが)。当時は所属先の日本酒メーカーにも基礎・応用の研究をする余裕があり、出向から戻った後には「麹菌の遺伝子研究」分野を立ち上げた。麹菌のAMA1配列を利用したショットガンクローニング、有用なプロモーターの取得などが可能であることを実した。このショットガン方式は別の日本酒メーカーに技術を教え、麹菌の優性マーカー系の実用化として引き継がれているが、まだまだ各種展開があり得るところかと考える。
47歳の時、大変お世話になった日本酒メーカーを辞め、金沢工業大学のゲノム生物工学研究所に転籍した。まさに麹菌の菌糸が結んでくれたような、不思議な縁で新たな麹菌研究の場に出会うことができた。この大学初のバイオ学科の設立に際し、教育体制の構築と研究所での研究の立ち上げに忙しい毎日で、さしたる実績も上げられないまま数年があっという間に過ぎた。ようやく、バイオ学科の3期生目の卒論として「日本酒のα-エチルグルコシド」を発酵で高めるテーマに取り組む余裕ができた。麹菌研究では恩恵もたくさん受けているが、痛い目にも遭っている。その一番の例は、あるコーヒーメーカーとの取組みの中で起きた。麹菌のDNAマイクロアレイ解析により、アクリルアミドで誘導された49の遺伝子を、アクリルアミド分解能を持つアミダーゼ候補遺伝子として選別した。DNAマイクロアレイ解析で発現量がもっとも増加した2つのアミダーゼ候補遺伝子について、それぞれの高発現麹菌を育種したが、いずれも分解能に変化がなかった。他方、両候補遺伝子を破壊するとアクリルアミド分解能が低下することが判明し、その後の解析から、この2つの候補遺伝子は1つのORFを形成していることが判明した。この確認には、実に2年間も時間を余分に費やすこととなった。
60歳になったころから、研究が朝日新聞の教育の紙面で取り上げられるようになった。同時に、地元の偉人である高峰譲吉博士にちなんで行われていた、麹菌を利活用する実験を、大学生から地元の小中学生に教える(お手伝いする)役割を担うようになり、麹菌研究により一層ハマった感がある。麹菌の一番複雑な並行複発酵物である「日本酒」と、一番単純な発酵物である「甘酒」の機能性を研究しつつ、これまでの40年以上にわたる麹菌研究をもう少し続けながら、後継者を育て、日本酒復権や甘酒のステータスを高めるなどのテーマに取り組みたいと考えている。麹菌が固体培養の特殊な環境で菌糸を伸ばしながら有用物質を生産する如く、その産物の研究はまだまだ可能性があると確信している。
著者紹介 金沢工業大学 バイオ・化学部 応用バイオ学科(教授)