生物工学会誌第99巻第1号掲載
中野 秀雄

新型コロナウイルスの突然の出現により、世界の風景がまったく変わってしまってから、はや半年が過ぎようとしている(令和2年9月執筆時点)。

この新型コロナウイルスによるパンデミックの試練は、丁度幕末期の黒船到来と同じような効果を日本全体に及ぼしているように思える。奴国が金印をありがたく頂戴して以来のハンコ至上主義が、いつのまにやら社会全体でIT化を遅らせ、それらがパンデミック対策に必要な迅速な対応の障害になっているという、不都合な真実が明々白々になった。筆者が勤める名古屋大学でも、総長が「世界1のデジタルユニバーシティーを目指す」と宣言された。生命農学研究科だけでも年間1000万円以上の非常勤職員の人件費をかけてチェックしている経理関係の紙書類と印鑑が(53研究室に分配されている講座費は7500万円程しかないのであるが)、今後この宣言で一掃されるとすると、新型コロナウイルスの恩恵は思いの外大きくなるのではないかと、日々事務に提出する紙と印鑑に埋もれている筆者は密かに期待している。

新型コロナウイルスの問題だけでなく、食料、資源、環境、エネルギーなど、世界が直面しているさまざまな課題の解決には、生物工学の貢献が必要不可欠である。しかしそのための公的な研究資金は、残念ながら我が国において十分とは到底言い難く、しかも「効率化」の名のもとに、年々着実に減らされている。このような状況下で、現状をポジティブな方向に動かすことができるのは、より積極的な産学連携であり、またリスクマネーを科学の領域に導くことができる大学発バイオ・スタートアップを、生み出し育てることであろう。

筆者自身は、無細胞タンパク質合成系を用いて、ヒトや動物から短時間でモノクローナル抗体を探索できる技術を開発し、大学発のバイオ・スタートアップであるiBody株式会社の立ち上げに関わった。単に検査薬や治療薬の抗体をスクリーニングするだけでなく、うまくビジネスモデルを構築すると、免疫系に深く関係する抗体分子を網羅的に獲得・解析することで、これまでにない事業展開が可能だと思っていたのであるが、資金調達でVCなどを回ると、「おたくの会社は、『試薬』『受託』『創薬』のどれですか?」とよく聞かれ、答えに詰まったことが度々あった。米国ではこの無細胞タンパク質合成系と合成生物学・インフォマティクスなどの技術を組み合わせた大学発バイオ・スタートアップも立ち上がっている。この分野でのスタートアップは、従来の枠にはまらないビジネスモデルを展開でき、バイオサイエンスとインダストリーを「リノベートする」役割を果たすことになるのではないかと大いに期待している。

大学発スタートアップの質と量において、日本は米国より大きく遅れをとっているのは歴然たる事実である。よく知られているように、米国では政府資金による研究開発から生じた特許権などを民間企業などに帰属させることが1980年に制定されたバイ・ドール法により可能になったが、日本でそれが導入されたのは、米国に遅れること22年後の2002年である。さらに米国では「失敗することを恐れない」チャレンジャーであることを尊ぶ精神が幅広く共有されているのに対し、日本では「失敗することは許されない」風土で変化より安定が好まれるという、精神文化的違いも指摘されている。

しかし日本はこれまで、短期間に急激な社会的変化を複数経験し、なんとかその変化うまく対応してきた。明治維新や、先の敗戦からの戦後復興などが典型である。その成功に秘訣があるとすると、高い倫理観に裏打ちされた合理的精神を皆が共有していたことではないかと、個人的には思っている。変化の時代を生き抜く術を我々は有している。老いも若きも変化を楽しんで欲しい。


著者紹介 名古屋大学大学院生命農学研究科(教授)     

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