生物工学会誌 第98巻 第8号
今井 泰彦


「おいしさ」というのは五感で感じる総合的な感覚とされ、さまざまな側面から科学的な研究が行われている。「おいしい」ものを食すると、なぜ幸福を感じるのだろうか。享受できるのは人類だけなのだろうか。日頃、漠然と疑問を感じていたが、先日、人類はどのようにして「おいしさ」を感じる能力を身に付けたか、という大変興味深い番組があったので、ぜひここでご紹介させていただきたい(NHKスペシャル「食の起源」)。

それによると、人類は今まで生き残るために数多くの危機、環境の変化に適合してきたが、食に関しても数々の変化への適合があったらしい。その過程で「おいしさ」に関する3つの特殊能力を手に入れたという。我々の先祖はアフリカで約30万~10万年前に出現した。そして、約6万年前に気候変動により寒冷化が起き、食べ物を求めてアフリカから新天地に移動した。しかし、そこにある食べ物は今までとはまったく種類が異なり、生き残るために色々な物を食べる必要が生じた。その中には苦味を持つ食材もあった。それまでは苦味を持つものは排除すべき食材であったという。それは、植物の葉などに含まれる毒物に苦味を持つものが多かったためで、敏感に苦味を感じとり、これを排除していたらしい。しかし、偶然、苦いが食べても安全な食べものを見つけられ、さらにこれに栄養があったことで、生存のチャンスを高めることができた。そして、苦味のある物を食べるということの積み重ねにより、苦味が次第に積極的に食べたくなる味として認識されるようになり、遂には「おいしい」とまで感じられるようになったという。人類は苦味も「おいしい」と思うことで他の動物にはない独自の味を手に入れ、食べ物の範囲を広げていった。これが第1の特殊能力である。

次に、さらに遡るが、かつて人類の祖先であった哺乳類は夜行性だった。約6600万年前に巨大な隕石が地球に衝突して恐竜が滅んだ後、次第に夜行性から昼間に活動するように生活スタイルを変えていった。その結果、目が発達して顔の骨格が大きく変化、長く突き出ていた鼻が退化して、鼻と口を隔てる骨がなくなり、食べ物の香りが直接鼻に抜けて嗅覚を刺激するようになったという。人間は嗅覚細胞が1000万個もあるが、これに対して味覚細胞は100万個しかなく、食べた際には、舌で感じる味の情報に比べ、桁違いに多くの「におい」の情報が脳に届く。加えて、火による調理を始めたことで、さまざまな香り成分が立ち上るようになり、香りが激しく脳を刺激し、味だけではなく、香りも加えて食べ物の風味を楽しむ能力を手にした。その結果、人類は味をより楽しめるようになり、「おいしさ」に結びつけて記憶するようになった。これが第2の特殊能力。この結果、おいしそうな香りによって過剰な食欲をかき立てられるようになったという。

そして、最後に、味覚も嗅覚も上回る第3の特殊能力を身に付けたことで、異次元の「おいしさ」感覚を得られるようになった。それは「共感・共有」する能力。人類はアフリカから出て旅をする間に、次第に前頭葉(腹内側前頭前野)が発達して、他の人と「共感」するという劇的な能力を身に付けることができた。その結果、今までは自分の経験で食べる価値があるかどうかを判断していたのが、たとえば「仲間が新しい食材を見つけておいしそうに食べている」という姿を見ると、これに「共感」して、自分も食べてみようという好奇心が芽生えるようになったという。仲間が食べているものは自分も食べる価値があるものと判断して「おいしさ」を共有するようになった。この仲間との「共感能力」の結果、人類はさらに生き延びるチャンスを高めることができるようになった。自分の好みだけではなく、自分と違う味覚を持った仲間と食べ物を「共有」していく、味の楽しさ、「おいしさ」を共有するという第3の特殊能力を身に付けたことで、人類は連帯感が深まり、生き抜くことができたと考えられているという。

さて、現在、世界中で感染拡大している新型コロナウイルスは人類史上、最悪のウイルスと言われている。一昔前ならば、発生した国や地域の風土病で済んだかも知れないし、さらにもっと昔だったら、固有の生物の中だけに閉じ込められていたものだったかも知れない。グローバル化が進んだ故に、あっと言う間に世界中に感染が拡大してしまった。まさにパンドラの箱を開けてしまったのである。しかし、いまこそ科学者が正確な情報を提供し、一人ひとりが行動に責任を持って、進んで協力することが必要である。一つの地域、一つの国で回復しても意味はなく、世界中で回復してはじめて終息する。コロナから身を守るのは、人類の持つ共感・共有能力を働かせた「連帯感」である。大切な人のために、三密を避け、外出を自粛して、一体となって危機を乗り越えることが必要である。

人類は今までに幾度となく苦難に出会い克服してきた。我々が身に付けてきた「おいしい記憶」をたどることが、コロナへの特効薬となるはずである。


著者紹介 公益財団法人 野田産業科学研究所(専務理事)

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