【随縁随意】ノーベル賞受賞者から香る研究観-田口 精一
生物工学会誌 第98巻 第5号
田口 精一
スポーツ最大の祭典であるオリンピック・パラリンピックは、より速く、高く、遠くを目指し、人類は進化し続ける。ノーベル賞も、人類の叡智の象徴であり、その輝かしい業績は人類史として刻まれている。筆者が現職に着任早々、入学した学生相手に、ノーベル生理学医学賞・化学賞の受賞者を一人選んで深堀してください、という課題を出したことがある。最初は鈍かったが、彫刻を掘るように徐々に業績の理解が進み、同時に科学者本人の人物像が浮かび上がっていった。筆者はこれまで、数人のノーベル賞受賞者と出会い、そこに香る研究観に接し考えさせられた。ここでは、受賞以前の出会いとして年代順に紹介させていただく。
埼玉の県立高校時代、筆者は弓道部に所属し、日々の地味ながら厳しい活動に怠け気味だった。2年上に梶田隆章先輩が居られた。黙々と練習に励み、穏やかな口調で語る静かな方との印象が強かった。弓道は物理学の粋ともいえるが、何故か物理系に強い集団だったような気がする。ニュートリノ振動の観測は、大規模スケールでありながら粘り強い研究活動で、いかにも理論派で堅実な梶田さんらしい研究テーマのように思う。実用には遥か遠い基礎科学の大きな果実であった。今年、顧問をしている協会で講演をしていただく計画を立てている。久しぶりにいろいろとお話しできることを楽しみにしている。
国際会議出席に伴い、Frances H. Arnold博士に会うためにCaltechを訪問したことがある。ラボツアー後、アインシュタインの彫像が鎮座するカフェテリアで、彼女と話をした。酵素の触媒活性を100、1000倍に上げるとあっさり言いのける延長線上に、「K点越え」が出るのか。進化分子工学を駆使して生命システムの創成を目指すうえで、彼女の跳躍力や陣頭指揮ぶりはPI(独立した研究者)を目指していた筆者にとってとても眩しかった。生物進化の原理を、実践的な形で生体化学反応に応用した成果は圧巻である。日本からは、多くの企業研究者が彼女を慕って留学し、帰国後もFrancesファミリーとして仲良く交流していることは有名である。
助手の時代に、仏国のルイ・パスツール大学で研究をする機会を得た。自然免疫研究を微生物の観点から学びたいと思い飛び込んだJules A. Hoffmann研は、分子細胞生物学、分子遺伝学、生化学が効果的に統合されていた。Hoffmann博士の優れたマネージメント能力にも圧倒されたが、書き物の英文表現がとにかく美しい。あれほど精緻なロジックの上に上品が添えられた文体を観たことがない。科学と芸術が共結晶化している。仏国だから?
北大時代に、クロスカップリング反応で知られる宮浦憲夫先生と同じ部門に所属していた。伝統的に有機化学分野のレベルは高い。北大は、地域性から周囲の雑音が入りにくく、独創的な研究が生まれる風土があるように思う。ある日、宮浦先生にノーベル賞(恩師:鈴木章名誉教授)を受賞する予感はありましたか?と学食で質問したことがある。「まあね.でも、研究発表後は撤退することを考え始めたよ.原理がわかれば、優秀なポスドクを擁する研究室には敵わないからね。」正直、カッコイイと思った。新分野の開拓と発展、スタイルの違いである。
乳酸ポリマーの微生物合成は、筆者の悲願だった。機密情報を含んでいたので、大村智先生に内容を理解していただいたうえで、PNASのcontribution投稿をお願いしたことがある。興味を持っていただけたが、結果的にはタイミングが合わず自由応募になった。折角なので、北里研究所内を案内していただいたところ、抗寄生虫薬はじめ、多くの人類を救った功績の証が散見し、すくった土の中の微生物代謝物がこれほど大きな価値を生み出すのか!といたく感動した。ちなみに、審査中に親切に対応いただいた編集長Randy W. Schekman博士は、受賞後NやSのつく商業誌には論文を投稿しないと看破された。講演で来日されお会いした時、髭を蓄えた博士の笑顔はとても印象的だった。
真理を探究する科学研究は、人間味溢れる活動である。スポーツや芸術活動と一緒で、人間そのものがドラマチックに前面に出てくるようだ(原稿掲載時には、新型コロナウイルス問題が少しでも改善していることを願っている。命・生活あっての研究活動であることが身に染みている)。
著者紹介 東京農業大学生命科学部(教授)、北海道大学名誉教授