生物工学会誌 第97巻 第5号
太田 明徳

私は1971年6月30日卒業という、明治初期の大学9月入学時代のような履歴を持つ大学紛争世代の一員である。大学ストライキ、すなわち学生による授業放棄と大学の封鎖が始まったのは教養学部の2年次学生の時の7月頃であり、翌年1月のストライキ解除まで、長期の無為の期間を過ごしていた。それだけの期間があれば有意義に過ごすことができそうなものであるが、いつストライキが終わるかわからないので、結局、日時が経過するままであった。喫煙という悪癖に馴染んだのが後遺症で、30才直前まで止められなかった。

なんとか無事に学部に進学できたのは、紛争収束のために、さらにいい加減になった単位認定のおかげと思う。農学部農芸化学科に進学したが、この学科を選んだ理由は、微生物に惹かれたためと、受験時にお世話になった家の子息がビール会社の社員で、学科の先輩であったことである。進学決定後は慌ただしく2年次後半と3年次の短縮された課程を済ませて、卒業研究の研究室に配属された。微生物に関心を持ったのならば、伝統があり、人脈も豊かな研究室を選べば良かったのであるが、当時の私はうかつにも卒業研究の研究室の選択によってその後の人生が大きく左右されるなんて思いもしなかった。単純に酵素学が新鮮で先端的な学問分野に思われたので、今堀和友教授の酵素学研究室を志望したのである。

今の私は学生たちに、目指す分野を真剣に考え、調査することを勧めている。若い未熟な人間が慎重に考えても、必ずしも思うようにはならない。しかし、最上の選択ではなくとも人生に対して肯定的で積極的であるかぎり、有意義な人生を送ることができるであろう。どのような分野が自分に向いていて、おもしろいか、また重要であるかということを懸命に考え、選択することが、自分の人生を生きるということでもある。私自身はあまり流れに逆らわず生きてきたように思うが、同時にそのことによって研究者として失ったものも多かったのではないかと振り返ることがある。良い研究者であるということと円満な人生を送ることとはあまり関わりがない。時に研究者となることを人に勧めることにためらいを感ずるのは、それが人生に大きなひずみを生ずることがあるからである。

今堀教授は教養学部基礎科学科の助教授から農芸化学科教授に異動して来られ、私は2代目の農芸化学科卒論生であった。研究室には教授についてきた基礎科学科の優秀な大学院生がいて、農芸化学科の卒論生には必ずしも馴染みやすい雰囲気ではなかった。博士課程院生のなかにはノーベル生理学・医学賞を受賞された大隅良典先生がいたのであるが、先生は自ら望んで京都大学にいてほとんど不在であり、酵母研究の仲間としておつきあいが始まるのは10年近く後のことである。当時の今堀研究室では助手2名が留学中で、残る当時の太田隆久助教授、大島泰郎助手、そして私を指導した松澤洋助手は、てんでに自分の持ち込んだ研究をしていた。私はこれが当たり前の大学の研究室だと思っていたが、今時の研究室とはだいぶ違ったようである。

卒業研究では松澤助手が分離した大腸菌の形態変異(短桿菌が丸くなる)に関する遺伝学を始めることになったが、酵素学とは関わりのないこのテーマは私に合っていたらしく、楽しかった。今堀研究室の当時の酵素学は一種の分光学で、酵素の円偏光二色性の測定により、酵素の構造を調べる仕事が中心であった。これにはあまり興味が持てず、旋光の数式にも困惑していたので、松澤先生についたのは私にとってまことに幸運なことであった。

後に分子生物学的な手法による研究に向かう大きな契機にもなった。卒論の発表会で今堀教授から、吸光度と濁度の混同を指摘されたが、これが唯一の教授からの直接の教えであった。酵素学研究室に卒論配属の希望をしながら、大学院では志望しなかったのであるが、その理由はもう一つある。当時の今堀研究室には、理学部生化学科の学生も卒論生として来ており、大学院生をチューターとしての「Enzyme Physics」(Volkenstein)の英語版を読む卒論生の読書会があった。そこで生化学科出身の卒論生が教養学部時代にロシア語の原書で読んだと言った。ストライキの期間を有意義に過ごした学生がいたのである。これで今堀研究室に残るという気持ちがきれいに消えてしまった。

結局、私はなんとなく自分に向いた世界に向かって進んでいたのだと思う。もし私が勤勉な勉強家で、当時の酵素学にまともに向き合っていたら、苦しかったに違いなく、博士課程を志望しなかっただろう。若者にとって研究は何より楽しくなくてはならず、新しい発見が伴えばもっと楽しい。楽しくない研究はやらない方が良いと今の私は言うことができる。


著者紹介 中部大学応用生物学部(教授)

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