【随縁随意】あなたの研究の顧客は誰?-栗木 隆
生物工学会誌 第97巻 第2号
栗木 隆
産業界では、常に「誰に」「何を」「どのように届けるか(売るか)」を考えて活動している。こんな中、paradigm changeはdisruptive changeとも思えるほどの近年の産業構造の変化についていけず、消滅していく会社は多い。最近のdisruptive changeの例は、従業員わずか3千人余りのAirbnbの時価総額が、すでに従業員1万7千人の世界的ホテルチェーンのHiltonを超えたことである。HiltonはMarriottと競争している場合ではなくなったのである。顧客の解決して欲しい問題をいかに解決するかを突き詰めて考えると「立派な建物」「行き届いたサービス」は必ずしもすべての顧客に必要ないことがわかる。Airbnbは顧客が想像も認識もしていなかった問題解決法を提供したことが成功の鍵であったと思える。こんな風に「イノベーション」に必ずしも研究や技術開発は必要がない。では、これからの産官学の研究機関はいかにして生き残っていけば良いのであろうか。
「マーケティングは顧客から出発する」とはP・F・ドラッカーの有名な言葉であるが、産業界だけでなく学術界の研究者も「顧客」を意識せず自分の仕事を進めることは困難な時代になったと考えねばならなくなったと私は思う。最高水準の科学によって、未知の現象を解き明かす、あるいは誰も目にしなかった技術やモノを生み出すことは学術界の研究者が第一に目指すことであろう。研究者のモチベーションは「その研究がいかに自分にとって面白いものであるか」「世界の誰もがまだ成し遂げていないか」などであり、この点は学術界であろうと産業界であろうと同じであると考える。しかしここで「顧客は誰か」を考えることもまた同じく必要になったと皆さんも思われないだろうか。
学術界においての顧客は、その研究に喜んで資源を投入してくれる納税者や社会そのものであると思う。2015年にスーパーカミオカンデでニュートリノ振動の発見によりノーベル賞を受賞した梶田隆章博士は受賞後、「何の役に立つのですか?」という質問に「何の役にも立たない」と答えた。人間だけが持つ高度な知的欲求を満たし、100年後かも知れないが人類に恩恵をもたらすであろう、このような最高水準の科学であれば「顧客」は喜んで資源を投入する。山中伸弥博士は、最高水準の科学でありかつ医療に直接大きく貢献するiPS細胞を開発した。「顧客」はこの成功に歓喜し、これを利用した医療を待ち望んでいる。しかし多くの研究は、その域にははるかに達しない「そこそこのレベルの研究」に終わる。顧客はそれらの研究に今後も資源を投入してくれるだろうか?
一つ目の解はその時点で「何の役にも立たない」と思われても、顧客すなわち人類ならではの知的好奇心と夢を満たす喜びを与えるほどの「世界でダントツ」の研究を行うことである。こんな研究は100年後には必ず「大変役に立つ」研究になるものである。二つ目の解は、レンガを高く積み上げるには横方向にも積まなければならないことを研究者が理解し、顧客も納得させることである。素晴らしい研究の周辺領域にはその研究を支える分析技術の開発や実験方法の開発が必要であり、また「ダントツを目指して」切磋琢磨し競争することにより抜きんでた研究は生まれる。最高水準の科学を支えるこんな裾野も必要である。三つ目の解は学術界でも産業界でも「顧客のニーズ」に応えることであると思う。顧客のニーズはその研究によって産業競争力が生まれ、雇用が創出され、世の中が豊かになることに尽きると思う。そんな研究には間違いなく大きな資源が投入されるであろう。これに関連して、産業界では「顧客ニーズ」に応える時代から、顧客さえもニーズと認識していない「インサイト」を探索しこれに応えないと市場で勝てない時代になっている。これら三つに当てはまらない研究は、「顧客の投資効率に合わない」研究として今後淘汰される覚悟が必要である。ただ、この覚悟さえできていれば、かく言う私も四つ目の解はあると思う。長い間注目されず、大きな研究費も安定した地位ももたず、細々とコツコツと「動く遺伝子」の研究を続け、81歳でノーベル賞を受賞したバーバラ・マクリントックの研究者としての生き方に、私は強い共感と魅力を持つ一人である。
著者紹介 江崎グリコ株式会社(取締役常務執行役員)、グリコ栄養食品株式会社(代表取締役社長)