【随縁随意】オールドバイオの楽しみ-下飯 仁
生物工学会誌 第96巻 第4号
下飯 仁
『生物工学会誌』の前身である『醸造學雜誌』が大阪醸造学会から創刊されたのは大正12年(1923年)である。大学図書館に創刊号があったので目次を見てみると、ほとんどが清酒(日本酒)に関する記事である。生物工学会はバイオテクノロジーの学会であるが、その中でも清酒醸造学はもっとも歴史のあるオールドバイオの一つであることは間違いないであろう。昔の酒がどんな味がしたのかを現物で確認することはできないが、明治初期の清酒の分析値をみると、非常に辛口で酸味も強く、まさに「鬼殺し」の味であったようだ。
明治以降の日本の近代化に伴い、清酒醸造にもさまざまな技術的進歩がなされて、現在の芳醇な清酒がつくり出されてきたのである。主な技術だけでも、高度精白米の利用、培養酵母の利用と酒母製造の合理化、主要な工程の機械化などがある。筆者が醸造学研究の道に進んだころ、ある先輩から「清酒醸造の歴史は、なりふりかまわぬ技術革新の歴史なのだ」と教えられたことがある。清酒醸造は日本の誇る伝統技術だが、一方で、その時々の最新の技術を積極的に取り入れてきたのである。
筆者の専門である清酒酵母にしても、変異株である泡なし酵母が実用化されたのは1970年であり、すでに50年近い歴史がある。清酒酵母はもろみで高い泡をつくる性質があるが、この高泡は発酵の指標となる一方で、もろみタンクの利用効率を悪くする。国税庁醸造試験所の大内らは、高泡をつくる優良清酒酵母から高泡をつくらない泡なし変異株を巧妙な手法で分離し、泡なし変異株を使用しても、できたお酒の品質には影響を与えないことを示した。その後、多くの泡なし変異株が優良清酒酵母菌株から分離され、広く使用されるにいたっている。アミノ酸の代謝制御発酵における変異株の使用には遅れるものの、醸造の分野にこれほど古くから変異株の利用がなされていたことは驚くべきことである。
また、生成酒の品質を向上させる変異株も多数取得されており、たとえば月桂冠株式会社による香気成分高生産変異株の育種は吟醸酒の品質を大きく向上させた。最近では、清酒の貯蔵にともなう劣化臭を出さないような菌株の育種も進められており、今後、清酒の品質保持に大きな貢献をすることが期待されている。
清酒発酵の特徴の一つは醸造酒の中でもっとも高濃度のエタノールを生産することであるが、清酒醸造における高濃度エタノール生産のメカニズムについては、いくつかの原因が考えられている。まず、清酒の発酵は麹菌によるデンプンの糖化と清酒酵母によるエタノール発酵が同時に進行する並行複発酵である。並行複発酵ではグルコースが蓄積しないので高濃度の仕込が可能となる。また、麹菌は糖化酵素以外にもさまざまな栄養素を生産することで酵母の増殖を助けている。さらに、清酒酵母自体も他の菌株に比べて高濃度のエタノールを生産することが知られている。清酒酵母の高い発酵力については、長い間、清酒酵母がエタノールなどのストレスに強いことが原因であると考えられてきた。しかし、筆者らは、清酒酵母は他の酵母に比べてむしろエタノールなどのストレスに弱いことを明らかにした。酵母が発酵で生産するエタノールは酵母自身にとっても増殖阻害物質であり、通常の酵母はストレス応答を引き起こしてエタノール発酵を停止する。しかし、現在使用されている清酒酵母はストレス伝達経路の遺伝子に多数の変異が入っており、エタノール濃度が高くなっても発酵を停止せず、結果的に高濃度のエタノールを作り出す。ストレス応答がむしろエタノール発酵を阻害することは大変興味深い。
ゲノム解析に基づいた最近の系統学的研究によると、清酒酵母はワイン酵母など他の系統の酵母から独立した「純系」であるとのことである。清酒酵母は日本という地理的に隔離された環境の中で進化してきたと考えられる。最近、自然界から分離した酵母を使用する試みが盛んであるが、それらの天然酵母は清酒酵母のような高い発酵力を持たない場合も多い。清酒酵母と同様に、ストレスに弱いが発酵力の強い酵母が元来自然界に存在していたのか、酒類製造という人間の営みがあって生まれてきた酵母なのか、興味は尽きない。
著者紹介 岩手大学農学部(教授)