【随縁随意】学問ノススメ-安部 淳一
生物工学会誌 第95巻 第12号
安部 淳一
日本の片隅で糖質の分解酵素を地味に研究していると、つい最先端の知識や技術からは遠ざかり気味になります。したがって、私に不向きなそれらの話は他の先生方にお任せし、これまでの大学生活で自分をもっと磨けば良かったことの反省を述べ、若い研究者とその卵の院生・学生の皆さんへのエールとしたいと思います。
各自の専門と近辺のできるだけ幅広い自然科学の知識を蓄えることは言われずとも行っておられると思いますが、ぜひ専門とまったく異なった分野にも興味を持つことを特にお薦めしたいと思います。最近では、総合科学、あるいは統合科学という言葉も頻繁に目にするようになり、幅広い教養を身につける重要性が指摘されています。国際学会や留学などで海外の研究者と話をする機会を得て、親しくなればなるほど会話が弾み、専門以外にさまざまな話題の会話がなされます。専門領域の最新の科学の話題はもちろんですが、野原を歩くときはさまざまな自然の風物について、町中では建物、道、交通機関、そして室内では政治、文化、歴史、絵画に音楽、文学、映画などの芸術、あらゆることが話題になります。時には、教育システムについても当然話題に上がります。これらについて、皆さんはどの程度興味を持っており、それらの話題を提供することができるでしょう?
私が尊敬する多くの先生方は、専門以外にも深い知識・興味をお持ちでした。物理学者であった寺田寅彦先生や朝永振一郎先生は随筆家としてとても有名で、科学、教育、芸術の分野で多くの作品を残しておられます。学生時代に所属していた研究室のある先生は、さまざまなジャンルをお読みの読書家でまた知識人でした。昼休みに読んでおられた本のタイトルを横目で盗み見て、へディンという探検家やさまよえる湖ロブノールという話を知り、私もシルクロードに興味を持ちました。同じ糖質分野のある先生は、ベートーベンのさまざまな年代における生活状況と心理状態からいくつもの曲の背景を論じ、ついに著書にまとめられました。留学先の仲間達からはよく歴史の話題に巻き込まれましたが、ヨーロッパの歴史はほとんど分からず、またアジアの歴史と対比して語ることもできず沈黙。もちろんその当時の西欧と東欧をまたいだ政治の話にはまったく歯が立ちませんでした。研究室のボスからはカズオ・イシグロの本を紹介されましたが、世界が認める日系イギリス人作家について当時はまったく知らず、また世界中にファンが多い黒澤明監督の映画についての背景や思想について尋ねられても答えられず、恥ずかしい思いをしました。日本の文化、歴史を、そしてそれらに対する私の理解を聞いてもらうチャンスを失しました。
各地で巡り合った教養のある人々の社会科学や歴史、文化の話題の豊かさは、とても豊かな精神性と深い人物像を感じさせ、印象が強く残っています。それらのいくつもの話題が次々に展開されるのが日常会話なのではないでしょうか?ぜひ日常会話に強くなりたいものです。芸術や歴史、文化について深く学べというのではありませんが、それらに接したときに心に留めると同時に感想を必ず言葉で表現し、感性を磨きたいと思いました。私が感じた彼らの豊かな精神性は、研究領域に重要な足跡を示す業績を上げると同時に、毎日の生活を本当に楽しんでいることから来るのではと察することができました。
今後、自然科学にとどまらず、社会科学、芸術、歴史、文化、多方面のことに興味を広く持ち、世界のあちらこちらで話題を提供できる研究者、技術者になって活躍されることをお祈りします。
著者紹介 鹿児島大学農学部食料生命科学科(教授)