生物工学会誌 第95巻 第8号
駒形 和男

微生物の研究には、乳酸発酵の研究から、酪酸発酵、アルコール発酵、酢酸発酵、自然発生説の否定、狂犬病のワクチン治療まで広範な研究を行い、微生物学の基礎を開いたフランスのパスツールの研究の流れと、家畜の炭疽病の病因が炭疽菌という細菌であることを解明し、寒天培地の導入、結核菌の分離などいわゆるコッホの条件を確立し、医学細菌学の基礎を開いたコッホの流れがあると考えられる。他方、1800年代の後半から1900年代の半ばにわたり、オランダのベイエリンク(Beijerinck, M. W.)はデルフトのPolytechnicalSchool(現在のDelft University of Technology)の教授として微生物学研究室を開設し、基礎微生物学(generalmicrobiology)の基礎を築いた。最近、この学派についての記録が出版され、再評価の機運が見られるので、この学派(Delft School)について紹介したい。

Delft Schoolの創始者であるベイエリンクは、根粒菌の分離で知られているが、さらに増菌培養(集積培養、elective culture, enrichment culture technique)の手法を発展させ、1921年から1940年の間に、硫酸還元菌、硫黄酸化菌、硝酸還元菌、窒素固定菌、尿素分解菌、発光細菌、酢酸菌、乳酸菌、セルロース分解菌、水素酸化菌、メタン酸化菌などの細菌を分離し、研究の対象とする微生物の幅を拡大した。増菌培養は、微生物の成育環境に基づいて、生育因子を制限し、その環境に生育する微生物を増殖・分離するする手法で、環境に存在する少数の微生物を分離するのに用いられる。また、ベイエリンクは、タバコモザイク病の病原体は細菌ではなく、濾過性のもので、これをウイルス(virus)と命名したことで知られている。

ベイエリンクの後継者となるクライバー(Kluyver, A. J.)は1914年、酵母の発酵性を利用した糖の分別定量の研究で学位を取得し、その後、セイロン(現在のスリランカ)、ジャワ(現在のインドネシア)で農産物の調査をしていたが、1921年にベイエリンクの職を継いだ。彼は、就任に際しMicrobiology and Industryという講演を行い、その中で、微生物は人類にとって有用な働きをするもので、微生物と人類とのかかわりは病気だけではないと述べている。また、クライバーは、微生物の発酵などに見られる代謝の研究から、すべての生化学的反応は水素の受け渡しであると述べ、unity in biochemistryを提唱した。現在の生化学からすれば常識であるが、この考えを発表したのが1926年のことであるから、ほぼ90年前のことである。クライバーは、基礎微生物学は医学細菌学と異なり、科学のなかの独立した一分野であると強調するとともに、化学工学をはじめ他分野との協調を述べている。糸状菌の振とう培養、通気培養の原型と考えられるクライバー・フラスコは彼の研究室で開発された。彼の研究室の名称がLaboratory of general and appliedmicrobiologyというのも彼の研究方針を物語っている。また、彼が糖の分別定量に用いた菌株は、オランダのカルチャーコレクションの酵母部門の中核となっている。

ファン・ニール(van Niel, C. B.)は、クライバーの研究室で助手を務め、1928 年12 月米国に渡り、Stanford UniversityのHopkins Marine Stationで紅色硫黄細菌の研究を続けた。また、1930年から1962年にわたり、同大学に基礎微生物学のコースを開設した。微生物の形態学、分類学、酵母と細菌の生態学、微生物の生化学、光合成などに関する講義、集積培養の実験が行われ、密度の濃いコースであったといわれている。受講生は、米国のみならず世界各国より集まり、後日、彼らのなかから基礎微生物学をリードする優れた研究者が多数うまれた。

ベイエリンク、クライバー、ファン・ニールの系譜に属する研究者の一門をDelft School といい、このSchoolは、微生物学を生物学の一分野と位置づけ、常に微生物とは何かという視点から研究を続けた。また、Delft Schoolの貢献は、微生物学研究者の育成である。このSchoolに学んだ研究者は広く世界に分布し、その地で基礎微生物学を根付かせた。微生物を研究の材料として用いるだけでなく、基礎微生物学を教育・研究する学部とはいわないまでも、せめて微生物学科の設立を望みたいものである。


著者紹介 東京大学名誉教授

 

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