生物工学会誌 第95巻 第7号
遠藤 銀朗

宮城県美術館で開催されたルノアール展を観てきた。国内外の多くの美術館から集められたルノアールの絵は観る者を楽しく幸せな気持ちにさせてくれる。多くの芸術の中でも、フランス印象派の絵画はそれを観る多くの人を虜にする。それは、画家の絵画手法によるというよりも印象派の絵の根底にある「幸福感」の忠実な描出と、それを鑑賞する側に創出させられる「幸せの無意識的共感」にあるように思う。そして、ルノアールは特にその傾向を強く示してくれる印象派の画家だと思う。

自然科学や工学技術は絵画芸術や文芸、音楽、舞芸などの芸術文化活動から対極にある営みであるとみなされることがある。しかし、必ずしもそれは正しくないと思う。科学技術も印象派の絵と同様に「人間の幸福を主題とする」目的によってなされる活動であることに違いはない。個々の科学技術の研究や開発においては、それが基礎的なものであろうと応用的なものであろうと、その発端には「科学的真実」を見つけ出すという目的がある。そして最終的には、その科学的真実を人間の幸福につながるものとして使えるようにしたいという目的がある。自然科学の場合、科学的真実は少しずつ近づくことはできるが、同時にさらに理解しなければならない謎も深まる存在のように思える。その少しずつ近づくことができた真実を技術の形に仕上げ、人間の幸福を実現する手段として使えるようにするには、そのために必要なさらなる謎を解き明かさなければならない。多くの芸術が追い求める「人間の心象的真実」もまた、多様な謎の解き明かしと人間の幸福を理解するための努力によって近づくことができる存在なのだと思う。

絵画芸術は、必ずしも先に述べたフランス印象派の画家のように「幸福な主題」を描いたものだけではない。重い主題によって描かれたものも数多くある。観る者を暗く不幸な気持ちに追いやるそれらの絵画は、なにを目的に描かれたものであろうかと考えさせられる。しかし、それらの絵画も多様であろう人間と人間社会の心象を一つひとつ解き明かし、そしてそれらの心象的真実から、人間の本質とその本質によって組み立てられる人間の幸福を見つけ出すために必要な芸術文化なのだと思う。翻って、科学技術にもこれと同じ状況があるように思われる。私たち自然科学者・技術者は、人間と自然の幸福な存続のために役立つことを目指して、己が決めたそれぞれの科学や技術の分野で日々活動している。しかしそのために、多様であろう科学的真実の暗く不幸な側面も見いだし理解しておくことが必要なはずだ。この不幸な側面の理解という目標がなければ、さまざまなリスクが克服された状況の下で人間として安心して生きられるというような、科学技術における「幸せの無意識的共感」を得ることはできないように思う。

科学技術としての生物工学はどのような目的を持ってこれから先に進むべきなのだろうか。生命や生物現象をさらに正しく理解することと、それら理解した事柄を新たな科学技術の創造に役立てていくことは、これからも生物工学に必要な手段といえる。そして、より正しく理解できた科学的真実を人間や自然にとって「幸せの無意識的共感」に結実させることが、生物工学においても目的の一つになるのではないだろうか。その結実の手段を見つけ出すこともまた必要である。科学技術において「幸せの無意識的共感」を獲得することは、必ずしも簡単でないかもしれない。生物工学のこれからの発展の先に予測できない暗く不幸な側面はないのか、もしそれがあるとしたらその側面から新たな真実として(あるいは人間・人間社会と自然の本質として)学ぶべきことは何か。そしてそれらを学んだことから新たに組み立てることができる「幸せ」の存在様式はどのようなものなのか。このように考えてくると、生物工学を含む科学技術と芸術の目的の間には何の壁もないように思われてくる。


著者紹介 東北学院大学工学部(特別教授)、東北学院大学工学総合研究所(客員教授)

 

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