【随縁随意】「そうぞう」閑話-田谷 正仁
生物工学会誌 第94巻 第8号
田谷 正仁
皆さんは、実験ノートのデータや論文の図表を眺めながら、あれやこれやと想像を巡らし、それがある程度かたまって仮説となり、新たな具体的アイディアとなっていったという経験をお持ちではないだろうか。筆者は昔からこの想像を巡らすひと時が好きだった。
先日駅構内にある本屋さんをぶらついていたところ、受験シーズンということもあり、各種教科の受験対策本が積まれていた。何となくその中から現代文対策本を手に取りパラパラと頁を繰った途端に、遥か45年以上も昔の記憶がまざまざと蘇った。「本文中の傍線部分について作者の考えとして正しいものを次のから選べ」という設問である。高校生だった筆者は、現代国語の授業中に教科書の文章を題材にして、「作者の気持ちはこうだ」と先生が説明されたのがどうしても納得ができず、教科書の出版社を通じて作者に手紙を書き、自分が感じた「作者の気持ち」と先生の解説とどちらが近いか尋ねたことがある。若気の至りで今思い出すと赤面ものである(ちなみに返事は来なかった)。ただ、今でもこの類の受験問題が出されていることに多少の違和感を覚えた。つまり、ある文章を読んで何を感じるかは個々人で異なって当然であり、極論すれば正解などなくても良いと思うからである。件のような設問は、これから色々なことにチャレンジする若者の自由な発想(想像)を阻害するとさえ思えるのである。
日本には読み手・聞き手の想像をたくましくさせる伝統的な文芸がある。その代表が俳句であろうか。作者の世界がわずか17文字の中に凝縮されているため、読み手側の想像をかき立てる。「古池やかわず飛び込む水の音」―古池の場所は山里か/古刹の裏境内か?季節は(蛙の季語を気にしなければ)夏/秋?時間は昼下がり/夕暮れ時?蛙はガマガエル/トノサマガエル?そもそも飛び込んだのは1匹なのか/複数匹なのか?自分の過去の経験を重ね合わせ、どのような情景を想像してもどれも間違いだとは言えないように思う。一方、聞き手と一体となって物語を創る芸に落語がある。落語家は一人でナレーターから登場人物まですべてを演じなければならないために、細部にわたる描写には限界がある。したがって聞き手の想像に頼る部分がある。名人と言われる落語家ほど聞き手に想像する余地を残し想像を促す間の取り方がうまい。水を打ったようにシーンと静まり返った会場で、聞き手一人ひとりが想像を巡らしているのを確かめているかのようである。同じ演目を聞いても、各人異なった感想をもつことが落語の楽しいところでもある。
浅田次郎氏のエッセイ中で、次のような一文が目に留まった。―小説に限らず、あらゆる文学は人間の想像力を涵養する。そして、想像は創造の母である。近代アカデミズムにおいて、もっとも非生産的な分野にちがいない文学が、他の学問に伍して尊重された理由はこれであろう。人間が文学を非生産的なるものとして軽侮すれば、想像力は衰え、あらゆる文化は新たな創造ができずに停止し、退行する。このごろ問題とされている、「読書ばなれ」の真の弊害は、実はかように重大なものであると思われる(浅田次郎:つばさよつばさ、JALグループ機内誌スカイワード9月号、p. 109–112、2015より)。
氏の言うあらゆる文化の中に科学技術も含まれることは言うまでもない。大学の文系を中心とした学部再編成が取りざたされている昨今、「想像」と「創造」の関係性について考えさせられた。1のものを2に作り上げるのは比較的容易かもしれないが、ゼロから1を生み出すには想像力が必要であろう。皆さん、せいぜい想像に関する感性を磨き創造力を養おうではありませんか。本稿脱稿後、JT生命誌研究館館長の中村桂子先生が想像と創造について同様の話をしておられるのを知り、意を強くした(週刊文春6月16日号、p. 100–114、2016)。
著者紹介 大阪大学大学院基礎工学研究科(教授)