【随縁随意】酵素阻害剤とくすり -森原 和之
生物工学会誌 第93巻 第8号
森原 和之
終戦後から1950年代にかけて日本の多くの製薬企業は抗生物質の発見に狂奔していた。しかし、抗菌作用によるスクリーニング方法には限界があり、成果は乏しかった。その間、画期的な業績をあげたのは三共研究所の遠藤章氏だった。彼はラットの肝臓抽出液を用いてコレステロール合成阻害剤を探索、1972年、青カビの生産するスタチンを発見した。スタチン製剤が動脈硬化や心臓病の特効薬として世界で広く使用されているのは周知のことである。同様に劇的だったのは米国NIHに在籍中の満屋裕明氏であろう。彼は免疫細胞を用いて多数の化合物を検索、エイズ治療薬AZTを発見する(1985)。AZTは逆転写酵素阻害剤であった。同種阻害剤のddIやddCもエイズ治療薬として認可される。
翻って、私自身の半世紀に及ぶ研究の大半は酵素関係であった。最初に与えられた研究テーマは緑膿菌プロテアーゼ(エルギノリシン)の結晶化だった。3年かかってやっと成功した。1955年、まだ日本が貧しい頃の話である。酵素の活性部位に関する研究はフィリップスによるX-線解析から始まる(1965)。リゾチーム-基質類似オリゴマー複合体の解析により、酵素と基質との結合部位(活性部位)の構造が分子のレベルで明らかとなる。それを酵素的手法でアプローチしたのはイスラエルのシェクターとバーガーであった(1967)。彼らはサブサイトマッピングという手法を考案、パパインの活性部位のサイズを測定した。私達はその手法を利用して多数のプロテアーゼについて検討し、数々の成果をあげた。たとえば、ズブチリシン(枯草菌プロテアーゼ)の活性部位指向性阻害剤を発見する(1970)。同阻害剤で失活したズブチリシンのX-線解析をクラウトら(米)が行い(1971)、我々のサブサイトマッピングの結果(1970)とよく一致することを認めた。
私達はサブサイトマッピングの研究をアスパルティックプロテアーゼにも拡げた。ペプシンや黴酵素を対象とし、有効なヘキサペプチド基質を発見した(1973)。1976年初頭、米オクラハマ大で開催されたアスパルティックプロテアーゼに関するワークショップに招待される。もっとも関心を集めたのは、梅沢らの発見したペプシン阻害剤ペプスタチンの阻害機構に関する同会主催者タン教授の発表であった。ペプスタチンを構成する新アミノ酸残基がペプシン触媒における遷移状態アナログと認定、それを同阻害剤の示す強力な親和性(抗原―抗体反応に匹敵する)の理由とした。タン教授と台湾大學で同級だったというメルク社のリン博士と親しくなる。彼はレニン阻害剤の研究をしていた。ユーゴスラビアのヴィトー・トルク博士とも親しくなり、彼との親交はその後も続く。
1987年の年末、トルクは突然私の研究所を訪ねた。これは内緒だがと断りながら、エイズプロテアーゼはアスパルティックプロテアーゼで、その阻害剤はエイズ治療薬になる可能性があるから、君は早急にその研究を始めるべきだと言って帰っていった。しかし諸般の事情でその研究に着手できなかった。エイズプロテアーゼ阻害剤に関する第一報は、1990年、サイエンス誌に発表される。同阻害剤は遷移状態アナログとサブサイトマッピングの知識をフルに活用して構築された化合物であった。同酵素の立体構造も同薬の創生に貢献した。メルク社ではレニン阻害剤の研究がその後押しをした。その後、同プロテアーゼ阻害剤を含む多剤併用療法が始まり、エイズ死亡者数は激減する。
今や、くすり探しの主流は、スクリーニングではなく、病気発症に関与する酵素の発見、結晶化、X-線解析、活性部位指向性阻害剤構築の時代に入っているようである。時代の変遷とともに進化する研究の有り様を赤裸々に描いた「ザ・科学者、企業体研究員奮闘記」(文芸社、七百円)を最近出版した。ご一読願えれば幸いである。
著者紹介 東亜大学大学院(元教授)