生物工学会誌 第93巻 第4号
関口 順一

信州大学での28年間、当初の21年間は講座制の下で過ごし、次の5年間は研究室制にかわり、定年後の2年間は特任教授として留学生と数人の学生を指導したが、その移り変わりの中で感じた研究室の体制について述べてみたい。

講座制の規模は大学によりさまざまだが、私が所属した信州大学繊維学部応用生物科学科は教授1、助教授1、助手1が基本であった。学生数は十数名で、半数以上は大学院生が占めており、1–2名の博士課程の学生と企業からの技術者を含めた規模の講座であった。一方、私が育った大阪大学工学部醗酵工学科では、講座の規模はその倍はあり、そのうち学部、修士の時代は週1回の雑誌会と年数回の研究発表会の折、指導教授にお会いする程度で、研究ディスカッションは助手の方にすべて任されていた。博士課程になって岡田弘輔教授の研究室に代わり、講座の規模も中程度になり、気さくな雰囲気の先生の下、研究ディスカッションの機会も増え、その後の研究に対するものの見方、考え方が確立できたように思える。このことからも指導教授と接する機会を増やすことの大切さを感じた。

さて信州大学での話に戻せば、教授として週1回の雑誌会とグループごとの週1回の研究ディスカッション、月1回の全体での研究発表会を実施していた。その中で週1回の研究ディスカッションには直接指導にたずさわる教員にも参加いただいて、詳細に実験方法、結果、今後の展開について話し合った。ノートを持ってこさせるので、理研で問題になった実験の不記載などはまず起こらない。グループ別なので、私はほぼ毎日午前中をこの仕事に充てることになったが、実験結果を評価したり、研究の展開を考える上で有意義であった。もっとも、ディスカッションに参加する学生諸君にとっては息つく暇もない学生生活だったと思うが、それでも卒業生から、あの時の経験が今の職場での仕事を支えていると言われると満更でもない思いである。研究テーマについて、助教授の専門のテーマ以外は私から提案することが多く、助手の方々とのディスカッションを通して、それらの研究テーマを展開した。

ポスドクシステムが不十分な日本では、研究の遂行は若手教員と大学院生に頼らざるを得ず、講座制は研究テーマを高度化し、成果をあげるに好適であった。研究費は赴任後10年近く大学からの運営交付金がほとんどで、たまに財団から外部資金を得ていた程度で、苦しい研究室運営であった。しかし50歳に近づいた頃から、科研費が貰えるようになり、生涯のテーマとなる枯草菌細胞壁溶解酵素の研究を続けることができた。途中、特定領域研究やNEDOのプロジェクトに参加したこともあり、枯草菌ゲノム解析の技術や情報の取扱いなどがわかるようになり、異なる視点から細胞壁溶解酵素の機能解明を行った。まさに新しい実験手法の導入と共同研究に積極的であり続けることの重要さを感じた。さらに論文を精力的に書くことが共同研究者の実績をあげるためにも必須で、共同研究の成功の大きな要素となった。

定年が近くなり、研究室制に移行していったが、その時でも数人の若手教員を交えての研究ディスカッションは続き、雑誌会では異なる分野の教員から多くの知識をもらい、自分だけでは足を踏み入れることがない新分野も体験できた。ところで、私は若手の研究者の方が強く主張した研究テーマを「没」にしたこともあった。個人の自主性を尊重するアカデミアの世界では非常に稀かもしれない。これは自由にテーマを選び、活発に研究をしてもらう雰囲気が大切であることは重々存じているが、一時の面白さを重視するより、それまで培ってきた学問的な位置づけを認識し、より深く掘り下げた研究を持続する方が大切であると感じたためであった。生涯学生諸君には個々のテーマごとに研究の面白さを伝えることに務めてきたつもりだが、このような私の体験談が、新たに研究室を主宰することになる若手研究者や学生諸君の参考になれば幸いである。


著者紹介 信州大学名誉教授

 

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