生物工学会誌 第92巻 第9号
河合 富佐子

研究者は研究だけに専念できることが理想であるが、人間社会ではそうもいかない。影響するものは研究環境、個人環境、時代背景といろいろあるが、私自身は、特に女性に対する時代の考え方との闘いにかなりのエネルギーを費やした。それでも何とか生き残れたのは私より以前の女性群に比べると時間の経過が助けてくれたおかげだろう。従姉の一人が京大女子学生一期生であったが、ほぼ一回り年齢の違う自分と彼女を比較すると時代の違いを実感する。さらに自分より5年下くらいから、どの分野でも数はともかくとして女子学生が存在するようになった。女性問題という言葉が最近ではあまり取り上げられないのも、時代の変遷を反映している。また、個人というものは確固とした考え方があるようでいて、いかに時代に影響されるものであるかを実感する。私の学生時代の指導者世代から以降、私と同年代およびかなり下の世代でさえ、女性への視点には問題があったが、ある意味ではその時代の考えに従っていたに過ぎない。それらの世代がすっかりいなくなったわけではないのに、気がつくといつの間にか女性の活用が叫ばれているという風潮には、とまどう思いもある。しかし、研究生活の最後にこのような変化を見届けられたのは嬉しいことである。では何が変えたかというと、個々の闘いの蓄積と時代の流れが合うようになった結果だと思う。

残念なことに、最近の理研のSTAP細胞の騒ぎをみていると、研究者としてどこかおかしいという気がする。ミスというより作為的な詐欺行為が露見しないと思っていたのか、あるいは露見したらと不安に苛まれることはなかったのだろうか。大きくアピールすることは、内容がなければ大きく墜落することでもある。光と影は常に表裏一体である。研究テーマに拘らず、成功の確率は研究者自身の判断と責任である。大きな果実を得られるかは賭けであり、努力の結果でもある。理研では理事長が未熟な研究者と断罪したが、その未熟な研究者を選んだ責任と今後の対応策が最終的にどうなるか注目している。この事件を受けて、女性研究者への影響という意見もあったが、あんなことで志望や進路を変える人はいないだろうし、世間の女性研究者への評価に影響することはないと信じたい。そもそもジャーナリズムの取り上げかたは、ゴシップ週刊誌並で違和感があった。あのスタイルで真に実験ができるのかということと、いまだに見かけの評価が女性研究者にはつきまとうという両面の違和感である。最近では、女性リーダーが大きな研究を牽引していることが珍しくなく、日本も国際化したと感じていたのと真逆の印象を受けた。論文疑惑の問題は男女を問わない研究者マインドの確立と存在に関わる。研究倫理以外に生き方の問題でもある。東大の論文疑惑では教授の辞職以外にも、同研究室出身者についても同様の疑惑が生じたようである。断固として虚偽を否定する人はいなかったのだろうか。いたとすればその方達に何が起こったかを知りたい。何グループかを競わせていたということだが、優秀な人材ならば別の世界もあったと思われる。どの組織に籍をおくかは研究費の獲得や学会の序列のようなものに影響する。しかし、それ以外でも研究者としての生き方はあるというのが、文系公立大学の教養からスタートして地方国立大学研究所で定年を迎えた私の実感である。

研究者の闘いの第一の対象は研究そのものであるが、それ以外にも闘わなければならないことは常に存在する。時代に求められるものはとよく言われるが、時代に求められるものに合わせるだけでは迎合に過ぎない。時代がくる前に時代を作ることに貢献するとか、来るべき時代を読み取ることが大切だろう。それではまったく無視できるかというとそうでもない。まったく無視するのはただ頑固、偏狭さを示すにすぎないこともある。自分は研究者としてどう生きるかを考えながら、時代の流れの中にヒントなり取り入れるべきものがないかを探ることから姿勢なり背骨ができ上がっていくのだろう。時代に流されても駄目、下手に竿をさしても抵抗が大きい。時の流れに身をまかせ、かつ先をみることが必要なのだろう。長期的には努力は報われることが多い、だから見る目を磨いて、めげず進みましょうというのが、若い世代へのエールである。


著者紹介 京都工芸繊維大学繊維科学センター(特任教授)、岡山大学名誉教授

 

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