【随縁随意】産学官連携におけるコーディネーター(人)の役割 – 西野 徳三
生物工学会 第92巻 第2号
西野 徳三
世の中がいわゆるバイオブームで沸いていた昭和63年、バイオ系の研究者や研究機関の数としては西高東低と言われた(それ以降は耳にすることは少なくなったが、当時はそのように呼ばれていた)東北の地にも生物化学工学科が東北大学工学部化学系の学科改組で誕生した。時を同じくして当時の通産省の肝いりで全国にできたバイオテクノロジー団体の一つ「東北地域バイオインダストリー振興会議」(通称TOBIN)もバイオ団体としては東北地域唯一の組織として発足し、私も当初から副会長のかばん持ちとして関与することとなった。
TOBINの発足時は東北大学の農学部と工学部が主となり三つの部会を擁する大きな組織でバイオテクノロジーの情報発信や啓蒙活動を行ってきた。しかし、時代の波に乗って目新しさにひかれて会員になったものの、企業にとっては成果が得られるのに時間がかかると見切りをつけて早々に退会する企業が続出した。その後は小人数ながらも活動して多くの人的ネットワークを構築しながら現在につながっている。しかし、今でいうところのコンソーシアムを作るとか、コーディネーターとしての機能を持つまでには至らなかった。
私自身工学部に移り地域への貢献が必要となると同時に、TOBINの活動とも相まって多くの地元中小企業との接触が増え、専門以外の雑多な相談や質問を受けることになった。たとえば農水産物業者から残渣の有効利用や排水処理、さらに生ごみ処理の新規微生物探索に関して、飲食業界の排水中の油分解に関して、種々の健康食品・機能性食品の製造法や機能に関してなどの相談、また、養豚業者や堆肥施設での臭気対策、特殊土壌菌の評価の依頼、はたまた美白化粧品の製造法などの話が集まるようになった。インターネットのまだない時代にそれらに応えるため、その都度情報収集に奔走し、当時は新たな挑戦の日々であった。そのような交流の中から人と人の輪ができ上がり、新しい製品や改良につながったものも多く、産と学との連携において、さらに官との関連において人の果たす役割を痛感した時代であった。
中小企業からの質問・相談に対する討論にあたっては学からの内容を理解してもらう困難さを再三実感した。バイオとは直接関係のない異業種の中小企業の社長さんが相談に見えた時などはなおさらであり、間入って双方の溝を埋めるか通訳(?)をしてくれる人がいないもどかしさを味わいながら努力したものである。
その後しばらくしてから方々にリエゾンオフィスが設置され、さらに母体の異なる種々のコーディネーターが組織化されてそれらの役割を果たすようになり、それまでの産から学への個人的な方向だけでなく、確実かつ的確なパイプで意思の疎通ができるようになり喜ばしいことと感じた。さらに学から産への情報の流れも加速されるようになり、ニーズ指向よりシーズを広める方向に変化していき、さらにその上研究シーズの発掘も手助けしてくれるように変化してきたことは大きな進歩と思われる。それに加えて、学において細々と行ってきた研究成果をも、しかるべき研究費獲得へと助言してくれ、特許申請の情報まで提供してもらえるように変化したなど、産学官の連携も様変わりしてきたように見受けられる。
しかし、すべての連携がこのように手厚い手助け・援助のもとにあるわけではなく、ベンチャー的な研究や過去からのつながりのあるものなどはやはり個と個との関係に結びついた提携も多く残っており、中小企業に対しての技術の移譲や共同研究を進めるにあたっては科学的知識が伝わるような人と人とのつながりが重要である事を改めて実感している。
著者紹介 東北大学名誉教授、公益財団法人日本化学研究会(理事)