生物工学会誌 第91巻 第9号
大島 泰郎

間もなく「ヒトゲノム解読終結宣言」10周年の日を迎える(この稿が出るころは記念日は過ぎているだろう)。ヒトゲノム解読を頂点とする生体分子に関する構造および機能の解析に関する研究は、ヒトゲノム計画が始まるほぼ100年前、ブフナー兄弟が発見した「生命なき発酵」が切り拓いたin vitro実験法に依存してきた。やがて、タンパク質など生体分子を単離、精製する実験技法が確立し、純粋な系、たとえば単一の酵素とその基質、補酵素のみからなる「反応液」を用いて生体分子の構造や機能が解明されてきた。今日の分子医療、創薬、バイオテクノロジー、環境技術のすべてが、in vitro実験から得られた成果に基礎をおいていると言っても過言ではあるまい。

いまでは一般向けの科学雑誌やテレビの科学番組でも使われるほどになっている「イン・ビトロ」であるが、果たして生体内の環境を反映しているだろうか? 

この疑問は好熱菌の研究をしていると避けられない。抽出してきた酵素タンパク質は安定であるが、基質や補酵素が生理的な温度では速やかに分解し、酵素活性が測れない。たとえば、キナーゼ類ではATP、糖代謝では三炭糖のリン酸エステル、これらは好熱菌の生理的な温度である60°C以上の温度では速やかに分解するので、多くの場合、好熱菌研究者は非生理的な低い温度で酵素活性を測定している。

また、好熱菌でなくても、酵素などタンパク質自体の安定性は、生きている細胞内ではもっと高濃度なので無細胞抽出液で観察されるよりずっと安定と一般に信じられている。生化学・分子生物学研究者の深層心理には、in vitroが細胞を再現していないという「うしろめたさ」があったはずである。

ある有名な教科書には、細菌の細胞内のタンパク質など高分子成分の重量パーセントは26%と書いてある。その大部分がタンパク質であろうから、細胞内のタンパク質濃度はおおよその見当として25%くらいと考えてよいであろう。われわれの技術では、こんな濃度のタンパク質溶液は作れないが、無理やり濃くした5%タンパク質溶液はすでに粘稠であるから、細胞内はトリモチ(若い人には死語かな?)のようなどろどろの状態であろう。こんな中にあるATP は、60°Cでも90°Cでも水に出会う機会すら少く加水分解も起こらないかもしれない。タンパク質もギュウ詰めで、よく議論される「X線構造解析の結果は、“溶液”中のタンパク質と違う」という結晶構造学者に対する非難めいた議論も逆で、細胞内のタンパク質は身動きもできない結晶内と似ていて、結晶構造解析の結果は細胞内のタンパク質の挙動をよりよく反映しているのかもしれない。

1897年、ブフナー兄弟の「生命なき発酵」の発見以来、生命科学の研究手法の中核であった“in vitro”実験は、細胞内の生体反応を忠実に再現しているとはいえない。最近、より細胞内環境に近い「無細胞抽出液」を作ろうとする研究が始まってきた1)。このような研究は、これまでの希薄溶液で得られてきたkm、kcatなど酵素反応のパラメータ、コンフォメーション変化などの動的な挙動、それらに基づいて作られてきたタンパク質の概念とは違った新たなタンパク質研究の世界を拓くのではないだろうか。

われわれは、細胞内のタンパク質の構造も機能も正しくは理解していない。細胞内のタンパク質を正しく理解できれば、そこから生まれる新しい知識が、新しいバイオテクノロジーを拓くであろうことは言うまでもない。

1) Fujiwara, K. and Nomura, S.: PLoS one, 8, e54155 (2013).


著者紹介 共和化工(株)環境微生物学研究所(所長)

 

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