【随縁随意】医療イノベーションと知財教育 – 石埜 正穂
生物工学会誌 第91巻 第7号
石埜 正穂
ノーベル賞を受賞した山中伸弥教授の一連のiPS細胞研究の成果に関して、最近、一定効果の期待できる特許が登録されはじめている。だがここに至るまで、京都大学iPS細胞研究所では、専門家によるフォローに恵まれながらも、知財確保のために多大な苦労を費やしてきた。実際、大学などにおけるバイオ医学分野の基礎・先端研究成果の有効な権利化には課題が多く、困難を伴うのが常である。
こういった中で、米国のホワイトヘッド研究所は、「外来性に導入された、少なくとも一つの制御配列に動作可能に連結されたOct4タンパク質コード核酸を含む単離された初代細胞を含む組成物」というクレームを有する特許の登録に米国で成功している(US8071369)。同研究所が、このような、iPS細胞の標準的作製法のいわば中間産物を対象としかねない権利(解釈次第ではあるが)を成立させ得たのは、Oct4がES細胞の樹立を促進できることをいち早く示した同研究所のイエーニッシュ博士らの成果に着目し、きわめて初期の段階で特許出願を行い、しかもそれをうまく生かしたからである。これは、基礎・先端的研究の現場に密着した知財面でのフォローの重要さを物語っている(因みに当該出願は、日本の現在の大学発知財の支援環境では、無用な「スクリーニング発明」と断じられて日の目を見ずに終わりかねない類のものである)。
イノベーションの創出においては、自由な発想の基礎研究から出てくる知財の種をいかにうまく掬い上げるかが肝要となる。残念ながら、大学の研究現場における知財の作り込みには課題がある。企業と大学が基礎研究段階から共同で研究を進めるようなプロジェクトも走っているが、出口を意識するほど目的が具体化されイノベーションから遠ざかる側面もあって難しい。いずれにしても、イノベーティブな技術であればあるほど、実用化に際して制度・インフラの改革が要求される。したがって大学は、その役割として、知財にビジネスモデルも加えた新しい価値を自ら率先して世の中に提案していく必要がある。 医療分野であれば、医学研究者の見識を存分に生かしつつ、治療や診断の将来像の観点から、来るべき医療環境の革新に照準を合わせた特許を作り込みたいところである。
そう考えたとき、もっとも根源的な課題は、大学の研究者の大多数が、知財の視点を欠いたまま研究を遂行している現状にあるように思う。そもそも論文を書くとき、「成果が出ました。では論文を書きましょう。」ということにはならない。実際には、成果に至る最初の知見(きっかけ)を得てからも、仮説をたててストーリーを頭に描きながらその後の検証的研究を進めて論文を作り上げている。特許においても同様で、「発明が出ました。では特許を書きましょう。」というものではなく、効果的な特許の構築に向けた研究戦略が必要である。社会が大学の研究成果の知財化を求める以上、大学研究者が論文作成に必要なプロセスにしか精通していないのでは理に適わない。
つまり、知財管理体制の強化も重要だが、研究者自身の知財に関する知識・意識の向上こそ、イノベーション創出に必須ではないだろうか。そのためにまず欠かせないのは、裾野の広い知財教育の浸透であると思う。
たとえば、中学生の社会科などの中で医薬開発における特許の意味や重要性を教えるなど、義務教育における知財のイントロダクションの在り方も重要となる。イノベーション創出に向けた医学研究者のリテラシー教育という面では、特許の構造のみならず臨床研究の知識も必要だし、工学などの他分野の技術についての教育も有効であろう。
教育とは地道な作業であり、忍耐が必要である。大きな予算をともなう短期的なプロジェクトは、時に起爆剤となることはあっても、ある意味箱モノに共通した危うさがあり、教育がこれに依存するのは適切でない。医療イノベーションの創出のためには、長期的な視野に立った知財教育を戦略的に構築する必要がある。
著者紹介 札幌医科大学(教授)、医学系大学産学連携ネットワーク協議会(運営委員長)