【随縁随意】心の師となるも心を師とするなかれ – 神尾 好是
生物工学会誌 第89巻 第11号
神尾 好是
「相構え相構えて心の師とはなるとも心を師とすべからずと仏は記し給ひしなり」。仏経典に記された一句である。岩手、宮城、福島3県の海岸沿いの住民は、2011年3月11日午後2時46分に発生した東日本大震災時の巨大津波による未曾有の大災害に見舞われた。行方不明者を含めて19,719名(10月12日現在:警察庁)もの尊い命が一瞬のうちに奪われた。
私の親友である佐藤鶴治さんは津波で流されていく被災者の救助ため津波に飛び込み命を失った。大震災から1ヶ月経過した頃であったろうか、捜索自衛隊員の一人が海水を被った瓦礫の中から黄色いランドセルを背負った小学校低学年の少女の亡骸を発見し、抱きしめたまま放すことがなかったとの新聞記事を見て、ただただ涙した。
私は、東北学院大学工学部多賀城キャンパスでの生物学の講義を行うたびに、必ず津波被災現場を通るが、今なお手つかずの瓦礫の山の傍を通るたびにただただ首を垂れる。命を奪われた方々のこと、家屋を奪われた被災者のこと、原発で自宅を離れ避難生活を余儀なくされている方々のことを幾度となく想うにつけ、軽度な被災の私は、亡くなられた方々に深甚なる哀悼の念を捧げるとともに、生かされたことへの感謝の気持を持ち、頑張らねばと思う。
今回の数十メートルもの巨大津波と同等の津波が、東北地方に1000年前にも奇襲していたことが、本震災以前からのデータで明らかにされていた。しかし科学者は、「1000年間も襲来していないのだから今すぐには来ないだろう」との予測から、1960年三陸海岸を襲った6メートルのチリ地震津波を想定して防波堤を築き、避難マップを作成した。これはまさに、規範となるデータを心の師とせず、心を師とした余りにも大きな誤りであった、と言えよう。
今震災による福島第一原子力発電所事故による多量の放射性物質の流出による広範囲な環境への放射能汚染が起きた。心(現時点ではこれくらいの設計でよかろうと云う妥協心)を師とした科学技術への不信感が一気に噴き出した。風評被害もそうである。一部ではあろうが、データを信用するどころか、どこからともなく広まる風評が、東北地方の家畜、水産物、穀類、野菜、果物などの生産者を苦しめている。政治家の「心を師とした」不適切な言動も目立つ。非常に悲しく、また恥ずかしい。対岸の火事と高をくくるのが世の常だが、国を揺るがした災害に真摯に向き合って欲しい。
大震災直後から、「想定外」という言葉が飛び交った。私ども実験科学者はこれまで発見された事実を規範にして、予想を立て実験で証明する。想定外の結果は大発見につながる。しかし、科学者は心を師とした想定を決してやってはならない。
最近、全国の大学工学部で学科を問わず、生物学が履修科目として本格的に取り入れられるようになったが、約9割の履修生(私の授業担当学生数は190名)は全く高校で生物を履修してこない。理由を聞いたら、「中学生時代に、分類とか聞いたこともない生物名がやたら出てきて何も分からない」とのことであった。
中学理科、高校の生物学の教科書は近代生物学を取り入れた充実したものになっている様に見えるが、全体を通して「生物学という学問」としての生物学であり、内容も高等生物が主体で、私たちの暮らしに密接に係わっている微生物の世界に関する記述がほぼ皆無に近い。実学、所謂「生物を利用して産業を興す」という身近な生物学はまったく感じられない。これは教科書の編集委員の片寄りから生じているのではと感じた。言い過ぎかもしれないが、これも心を師とした教科書作りではないだろうか。
私は、「私たちの暮らしと微生物」から授業を始めているが、学生たちの驚きの目での受講態度はいつも印象深い。私は、学生がアンケートに「生物学はとても面白く、もう少し早くから興味を持てばよかった」と書いてくれるのが嬉しい。最近若い大学教員から、「会議や大学院生の実験指導で多忙のため、自分自身で実験する時間がない」ということをよく耳にするが、極論を申し上げると、院生には手とり足とりの実験指導はいらない。院生は実験操作の試行錯誤を繰り返して必ず実験科学の真髄を会得する。この期間が一人前の実験科学者に成長するためにとても重要であると思う。さらに院生は、若手教員がたぎる情熱を燃やし寸暇を惜しんで実験をして論文を仕上げる姿を目の当たりにした時、彼らを心の師として成長していくのではなかろうか。情熱を失う時に青春は終わる。
著者紹介 東北大学名誉教授、山形大学大学院理工学研究科特任教授