生物生物工学会誌 第102巻 第10号
芦内 誠

小職は高知大学生命環境医学部門に所属しています。当方部門の名称にもある「生命」「環境」について自らが理解できているか(正直にいえば)不安に思うところがありました。今回の「巻頭言“随縁随意”」は思い切って「いのち」をテーマにします。サイエンティフィックな哲学“おちこち”にお付き合いいただければ幸いです。

ところで、「生命」と「生物」、また「環境」と「生態」について本質的な違いを認識したうえで表現することを意識されていますか?いわゆる「理系」的なフィールドにいると何やら曖昧になって、ともすると「同一性」のバイアスに支配されることも少なくないように思います。小職が偶々参加したセミナーの席での件、講師からの『生物にはどのような特徴がありますか?』との質問に対し、参加者の一人から『自立的に増殖する存在』との答えがあったのを記憶しています。セミナー講師は地球微生物学を専門としていましたので、すかさず『深海底生命圏には10万年、ひょっとすると億年単位で時を経ても姿を変えず、増えようともしない生命体が存在する。このような存在を果たして生物と呼べるのか?』と問いかけました。私はこの核心的な問いから、大いなる気づきを頂いたように思っています。もう少し踏み込みますと、時間の長さに対する認知バイアスの存在、加えて「生命」ではなく「生命体」と表現したこと、まさに「言い得て妙である」と感服したことを思い出します。

釈迦に説法のようで恐縮ですが、ハイデガーの主著『存在と時間』は「生命」と「生物」の違いを言語化するうえで大いに役立ちます。生命は存在であって存在者ではありません。逆に生命体は存在者であって存在ではありません。その複製体を高速で作り出せるようになった特殊な生命体「生物」も然りです。存在者には実体があり、一方で存在そのものに実体はありません。ハイデガーの存在論がアインシュタインの一般相対性理論にも影響を与えたことは有名です。実際、『存在と時間』の主題は「存在を時間によって理解する」ことでしたので納得です。

ただし、生命(いのち)に潜在する「時間性」の意味をより理解するにはもう一工夫必要かとも考えています。ハイデガーなる真理の探究者(現存在)は「死」という絶対的可能性(時間性のなかに潜む結果)を傍らに置くことで「存在」することの意味を理解しようと試みます。小職は前出の問答から『生命(いのち)とは時(とき)に抗う存在』ではないかと気づきました。すなわち、「結果」ではなくそこに至るまでの「過程」にこそ、生命に足りうる本質が存在するのです。本件を理解するうえで格好の題材が「テセウスの船」と考えます。あまりにも有名な哲学パラドックスですので詳細は割愛しますが、たとえば、人体は60兆個の細胞でできており1日で約1兆個の細胞を入れ換えます。約2か月後、今のあなたは存在論的な「死」を迎え、生命の基本の細胞レベルで見れば、ほぼ完全に別人のあなたが「命」をつないでいることになります。それでも、あなた(現存在)は未来のあなたを自分だといえますか?逆に、先進再生医療技術によって現在の細胞から正確に生み出されたあなたのクローンは、それでも、あなた(現存在)と同一であるといえますか?存在論上の絶対的可能性に抗うからこその生命であり、故に、存在論は生命を理解するうえできわめて重要な哲学ではある一方、さらなる深化を求めるには不足しているといわざるを得ません。終局、新たな「生命論」を必要とする時代に突入したとの認識に間違いはないようです。

最後に、難培養微生物群の存在と環境保全の方向性についての考えを述べたいと思います。地球上に存在する微生物の総数は1030個といわれ、固定化された生物利用(循環)可能な炭素量(イエローカーボン)は植物が固定している炭素量(グリーンカーボン)に匹敵します。特に重要視すべきは、難培養微生物が大半(> 99 %)を占めるという事実です。したがって、微生物の生存戦略は大量のエネルギーやバイオマスを要する「増殖(バイオ異化)」ではなく「修復(バイオ同化)」に特化していることを意味します。現在、生分解性が環境保全の切り札とされていますが、炭素循環の主役である難培養微生物群への影響が不分明な段階での拙速な環境利用は避けた方が無難かと思います。



著者紹介  高知大学教育研究部総合科学系生命環境医学部門(教授)

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