生物生物工学会誌 第102巻 第2号
赤田 倫治

久しぶりの対面授業のせいなのか、ある日の微生物学の講義中、殺菌法や発酵現象の解明について話しているときに、ふとパスツールが私に降りてきて、なぜか岡山弁でしゃべり始めたんです。他でもない、生物がどこからともなく自然に発生することがあるという「自然発生説」の否定や、Chance favors only the prepared mindの名言で知られるあのパスツール先生です。

“そこら中に微生物がうようよおるってことをみんな知っとる? 肉汁を置いとったら生物が自然発生するとか言うとったやつらは間違っとるってことを言いたいんじゃ。肉汁を煮るだけで、目に見えん微生物が死んでしもうて、何も起こらんようになったのをみせたじゃろ。煮んと、肉汁にコンタミしとった微生物が増殖しただけじゃが。”

パスツールは、パスツールピペットと呼ばれるようになった細い管を持つフラスコを作製して、自然発生説を否定してみせたわけですが、それ以上に、殺菌が、目に見えない微生物たちを扱うことを可能にした本質的な実験法なんだということを、私に言わせようとしていると感じるわけです。

ところで、煮ればよい殺菌法は、科学の基礎でしょうか、それとも応用でしょうか?0から1を作り出すのが基礎で、1から100の量や種類を作り出すのが応用っていうイメージはどうなんでしょう? 科学の歴史で考えてみると完全な0はないのかもしれませんが。

最近、私たちは大容量PCR法という技術を近所のカニカマ機械メーカーの人と開発しています。PCR法は、新型コロナウイルス検査で広く一般に知られた技術となりましたが、多くの場合、微量のDNAを10~50μLの反応液中で増幅します。この技術を0辺りから1の基礎とすると、1mLの反応液で同じことをすれば、1から100への応用となり、1LができればDNAの新しい製造法となると思いつき、始めたわけです。でもこれが全然できない。そこであれこれ、0辺りに戻って実験してみることとなりました。そうしてわかったことは、DNAが不安定な物質だった、ということでした。ここでは煮過ぎがよくなかったのです。DNAはmRNAより安定ですが、それは程度の問題で、DNAは安定だという常識がすっかり邪魔になっていたのでした。現代は、情報が多すぎて、0辺りに戻ることや常識から距離を置くことが難しい時代なのかもしれませんね。

パスツールは、若くして光学異性体を発見したので、化学界を牽引して行けたはずと思われます。しかしながら彼は、一度、地方工業都市にあるリール大学に移り、そこで、アルコール醸造業者から品質管理の相談を受けて、アルコール腐敗の原因を探り始めました。

“困っとった会社の人をなんとか科学で解決してあげたかったんじゃ。せーでもなあ、それを解決するには、そこら中におる微生物を殺菌して、微生物がおらん空間を作らにゃおえんかったんで、煮りゃあええという方法を思いついたんじゃ。これが、論争じゃった自然発生説の否定に通じたんじゃが、それよりなあ、わしがうれしかったんが、煮る殺菌法でおいしいワインや牛乳を飲めるようになったことじゃが。”

“人の役に立つことは、幸せな気分にさせてくれるじゃろ。わしが科学に基礎も応用もねえと言うたんは、そんな議論より、人の役に立つことを目標に、根本からの解決を科学で図ってみることが重要じゃあと言いてーんじゃが。わしが晩年、流行り病やワクチンの研究をしとったいうのを知っとるか。未来でもコロナとかいうて困っとるらしいのう。mRNAワクチンとかいうのができたんか。頑張ったのう。でもなんでより安定なDNAでやらんのじゃ? 未来でもまだまだ科学で解決せんといけん課題がぎょうさんあるようじゃのう。0から100まで頑張りんさい。子供たちへの幸せが作れるからのう。”

The prepared mindとは、困っている人を科学で助けたいと思う心なんですね。パスツール先生、ありがと。



著者紹介 山口大学 大学院創成科学研究科 化学・ライフサイエンス系専攻(教授)

►生物工学会誌 –『巻頭言』一覧