生物生物工学会誌 第101巻 第2号
山田 修

「巻頭言“随縁随意”」の執筆依頼が来て「学会への提言や若手、学生へのエールなど」を書くようにといわれました。しかし、そもそも、ものを書くほどの実力も実績もありません。そこで改めて、これまでの来し方を振り返ってみると「まったく仕事ができていない」ことに愕然とするとともに、世の中の移り変わりやデジタル界隈のうつろいの早さに驚いてしまいました。特に他に思いもつかないので、爺ぃの昔話を記してみることにします。

大学を卒業して1年間ブラブラした後、国税庁に技官として拾ってもらいました。9か月ほど国税庁醸造試験所で研修を受け、翌年1月に仙台国税局鑑定官室に配属となりました。変則的な時期の異動だったため、醸造指導の真最中、出張で部屋には誰もいなかったことが印象に残っています。また、メーカーに泊まり込みで清酒造りを実地に教わる機会を与えられたものの身につかず、今さらながらきちんと勉強しておけばよかったと悔やんでいます。当時はまだ、国税庁への計数報告は紙テープに打ち出し、切ったり張ったりして行っていました。また、鑑定官室のPC-9801には8インチフロッピーディスクドライブが接続され、そこからMS-DOSやアプリを起動して使っていましたので、広大な20MBのハードディスクが設置された時は感動したものでした。

仙台で数年間勉強したり、醸造試験所で1年間研修を受けたり、霞が関の国税庁酒税課へ1年間実査官として勤務した後、東京国税局鑑定官室分室というところで、全国の鑑定官室から送られてくる計数の集計などに携わることになりました。分室では、紙テープをハードディスクに記録し直して捨てたり、お役御免となったHITAC 10IIというオフコン(オフィスコンピュータ、事務処理用中型計算機)の廃棄を手伝ったりと、片付けに精を出しました。世の中ではWindows 3.1が出回り、DOS/V、PHSなどという話題も出はじめていたような気がします。

その後、首都機能分散というかけ声の余波による醸造試験所の引越しのお手伝いをすることとなり、荷物を送り出しては受け取ったりと、東京と広島とを行きつ戻りつしていました。古いラベルの剥げた試薬や用途もよく分からない機器の廃棄など、ここでも片付けにハリキリました。また、巷ではインターネットという言葉がちらほらと聞こえてきており、移転を機に試験所もインターネットに接続させようと、JPNIC(日本ネットワークインフォメーションセンター)にドメイン名を申請したり、こっそりDNSサーバを立ち上げてもらったりしていました。世の中はWindows 95前夜といったところでした。

引越しが終わると福岡国税局鑑定官室へ鑑定官として配属されました。しかし、鑑定官としての能力がかけらもなく、とある清酒酒造メーカーの社長からは「うちの社員なら即日クビ」と言い渡されたこともありました。福岡は清酒の他に焼酎メーカーも多くあり、初めて蒸留酒造りや黒麹菌などに触れることもできました。MS嫌いからノートPCへLinuxを入れてみたり、HP-200LXを雪山へ担ぎ上げたりしていました。また、PCで組んだツールがそのままMacで動くのを見てJava VMの威力を実感したりしておりました。

福岡で4年間、人様の邪魔にならないようにと過ごした後、独立行政法人化のどさくさにまぎれて醸造研究所へと異動となりました。しかし、ここでも研究者としての経験も力量もまったくなく、不惑を前に途方に暮れてしまいました。なにしろ、初めてPCRという技術を知らされて度肝を抜かれている体たらくでした。研究室では黄麹菌EST解析だ、ゲノム解析だ、と難しい言葉が飛び交っており、なんとか勉強して喰らいついて行こうと四苦八苦していました。このころ福岡で触れた黒麹菌の勉強をほそぼそと始めたのでした。しかし、世の中は、やれプロテオームだ、トランスクリプトームだ、メタボロームだ、携帯だ、スマホだ、5Gだ、Twitterだ、Instagramだ、クラウドだ、テレワークだ、などと怒涛のごとく流れていき、もはや理解不能、とうの昔に追いかけるのを完全に諦めて現在に至っております。

こんな奴でもここまで続けてこられたのは、「なんとかなるさ」という、いい加減さの賜物かもしれません。


著者紹介 独立行政法人 酒類総合研究所 品質・評価研究部門(部門長)

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