【随縁随意】ビトロはビボを本気で目指せるか? – 酒井 康行
生物生物工学会誌 第101巻 第1号
酒井 康行
人体応答の理解や予測手法として、生理学性の高いヒト培養細胞系の重要性が急激に増している。この背景には、幹細胞技術に加え、オルガノイドなどの各種三次元培養や共培養、Organ on-a-chipなどの培養技術が揃って急激な進歩を遂げていることがある。最近ではこれらの先進的培養系は、“Micro-Physiological System = MPS”という用語で括られつつある。最近、米国食品医薬品庁(FDA)の動物実験代替法ワーキンググループが、MPS および Organ-on-a-chipについて新たな定義を提案した。これによれば MPSは、オルガノイドや Organon-a-chip といった先進的な細胞培養系をすべて含むきわめて広いものとなり、マイクロ流体デバイス技術を用いる Organ-on-a-chip は、MPS の一つとして位置づけられた。MPS でない培養系は、今や二次元の単一細胞培養ぐらいである。
MPSの研究コミュニティーも急速に整備が進んでいる。欧州では2018年にEuropean Organ-on-a-chip Society(EUROoCS)が、米国では 2021 年から MPS World Summit が組織され、2022 年の初夏に米国ニューオーリンズにて第 1 回のオンサイト会議が開催された。今後は international MPS Society(iMPSS)の設立が予定されている。以上の米国・欧州がリードする流れの特徴は、MPS 研究者とベンダー、ユーザー(医薬品や化学物質・食品など)、規制当局といったステークホルダー間の協調が開発初期からの担保されていることであり、これは当然、近い将来の MPS の規制導入という意向を反映している。他方の背景として、欧州や米国での動物実験代替という社会的要請の高まりも大きい。
さて、多様な臓器構成細胞と広義の MPS 培養技術とをフル活用し、インビボと同様な環境下で細胞を培養することができれば、原理的にはインビボにあるのと同等の機能や応答を発現するはずである。その実現に必要な知見と技術とを現代の我々は手にしつつある。しかし、未だインビボの再現にはほど遠いのが現状でもある。個別臓器の MPS についてでさえ、現代のさまざまな技術は現時点では個別の必要条件に過ぎず、それらをどのように組み合わせれば必要十分条件になるのか、あるいは、まだ足りない条件があるかなどが、依然として明らかでない。これは、ビボを正面から目指す系統的な研究がなされていないためである。我々もプレート培養における酸素の拡散律速の問題を解決することで、専ら嫌気呼吸支配となっている現代の培養系の抜本的な解決の方向を示せたが、それは基本的であるとは言え必要条件に過ぎない。たとえば、成熟機能を人体内臓器細胞のターンオーバーに相当するぐらい長期に培養し、徐々に進行する臓器炎症などの慢性疾患を再現できるかと言えば未達成である。
「適切な細胞群を生体内と同じ環境で培養すれば、原理的には生体内と同様の機能や応答を発現するはず」である。しかしながら、上述の系統的検討の不足という科学的な問題に加え、生物科学コミュニティーの中には多かれ少なかれ「所詮はビトロ」という認識が厳然として存在することも大きな問題に思える。一見完成度が高く見える現代の細胞培養手法体系について、ビボの再現を本気で目指し、科学的根拠に基づく抜本的な改善に乗り出すための道具立てに目途は立った。これを基礎に生物工学者は、「所詮はビトロ」という認識の背後にある現象を科学的に解明し、ビトロとビボの乖離の克服に正面から取り組むべきであるし、我々はそれを可能とする時代に生きている。
著者紹介 東京大学 大学院工学系研究科 化学システム工学専攻(教授)