生物工学会誌 第100巻 第11号
上平 正道

ヒトゲノムが完全解読された(Science, 1 April 2022 Special Issue)。今年は生物工学会100周年、新型コロナウイルスのパンデミック克服(希望的観測)とともに記念すべき年となった。なぜ、今更ヒトゲノム解析の話題かと思われる読者もあるかもしれないが、約 20年前、2003年にヒトゲノム解読完了が宣言された際には、当時解析困難なリピート配列など、ヒトゲノム全配列(30億5000万塩基対)のうち 15 %が未解読であり、2017年の時点でも全体の約8%、2億塩基対が未解読であったが、それがついに完全解読されたのである。ヒトゲノムプロジェクトが開始されて約30年後の快挙だ。残っていた2億塩基対にはタンパク質をコードする遺伝子が115含まれており、ヒトの遺伝子は合計で1万9969個になった。ヒトゲノムプロジェクト開始当初10万と見積もられていた遺伝子数が、ドラフトシーケンス解析後に3万数千と見積もられ、結局は約2万であったという事実に、他の生物種と比べて意外と少なかったというのが大方の見解となっている。完全解読はされていなくとも2003年以降、ポストゲノムが叫ばれる時代になってヒトゲノム配列情報が医療に与えた影響には絶大なものがあり、個人のゲノム情報に基づいたゲノム医療が現実のものとなってきている。いうまでもなく、配列自体は情報であり機能を示すものではなく、ヒトゲノムの完全解読によって生物学や医学に新しい何かが見えてくるかは未知である。しかし、我々自身を知るうえで重要な情報が加わったことには間違いない。

今回の快挙に配列解析技術の進歩は不可欠な要素であった。コストの低減に加えて、高精度で長鎖の配列解析が可能になったことによるものである。ポストゲノムの2000年代中ごろから始まった大規模シーケンス技術開発によって、1人のゲノム解析に1億ドルといわれたコストが、ムーアの法則を大幅にこえる勢いで低下して、この20年間で1000ドル以下にまで低減し、この流れは現在も続いている。この分野で日本の技術が具現化されていないことは悔しいところである。ゲノム解析の先にあるゲノム編集・改変の分野での技術開発競争の遅れも指摘されているが、生物工学会からの技術発信も含めてこれからの巻き返しを期待したい。

学会が創設された100年前には遺伝子の物質としての存在もわからなかったのが、今ではあたり前のように遺伝子の働きを意識しながら細胞の機能改変を行っている。つまり、細胞機能の遺伝子的改変を通して生物をデザインすることが可能になっている。過去の状況から考えてもわかるように、さらに20年、50年、100年後の未来に出現するであろう新たな技術によってどのような状況になっているか、 SFの世界観に立って想像をめぐらせても、予見することは難しい。生物としての我々自身についてもわからないことが多いのだが、いつか、意識、本能、進化といった生物の謎は解明できるのか、それらに共通する意志(魂)の働きを証明できるのか。一寸の虫にも五分の魂、1 μmのバクテリアにも魂の存在を確信しているのであるが、その実体を科学的に説明することができるようになるのか。ものごとの根源である量子物理とのシームレスな関係性は見いだせるのか。現在との接点として量子コンピュータ、人工知能(AI)、仮想現実(VR)技術の進展により時空をこえた解析が可能となり、いつの日か人類が生み出した科学が生物の謎を解明することを夢見ている。


著者紹介 九州大学大学院工学研究院(教授)

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