生物工学会誌 第100巻 第10号
大城 隆

年号が昭和から平成に変わった頃、全国の工学部にバイオ系学科が数多く設立された。私の所属している学科もその一つで、1989(平成元)年に鳥取大学工学部生物応用工学科は発足した。私は、入学1期生が卒業研究に着手する前の1991年、ちょうどバブルがはじけつつあったころに、6年余り勤務した民間企業から赴任した。それからもう30年以上になる。翌1992年、生物工学会は創立70周年を機に、醱酵工学会から名称変更し、現在に至っている。年次大会は1967年からは長らく、大阪の日本生命中之島研修所で開催されていたが、私が大学院を修了した1985年(昭和60年:この年の出来事は、本誌「キャリアデザイン」に書かせていただいた1))に大阪を離れて東京大学教養部で開かれ、それ以降は全国で実施されるようになった。私も企業在籍中に大会で発表する機会に恵まれ、会員番号は1000番台である。このように、私が大学院を修了してから5年余りの期間に、生物工学会はダイナミックに変化を遂げ、年次大会も規模が大きくなり、研究対象を大きく広げて展開していった。バイオテクノロジーと呼ばれ始めた技術の発展は目覚ましく、学会の体制もそれに呼応して変わっていったのは当然のことである。ここ数年の年次大会では毎回、アジアの研究者を交えたシンポジウムが企画される一方、地域に目を向けた取組みも行われ、いわゆるグローカルな視点を持つ学会へ変貌を遂げている。

私自身はというと、大学へ赴任してからいろいろな研究テーマに関わり、学生さんの指導を行うとともに、自らもピペットマンを握り、日々実験に勤しんでいた。修士課程から企業に就職し、学位を取得していなかったため、当初は研究成果が出れば、学会発表、論文投稿というサイクルを繰り返し、少しずつではあるが学術成果を積み重ねていた。また、赴任時から、海外の大学との共同研究を複数行っており、オランダの大学に2か月、フランスの大学に半月、イギリスの大学に1週間ほど滞在させてもらったことがある一方、何人かのポスドクの研究者がオランダから鳥取へ来たこともあった。海外の研究者の考え方は新鮮で、当時の学生さんに強い影響を与えたと思うし、私自身もいろいろな面で感化された。それから10年ほど時が経ち、2004年の国立大学独立法人化後の2006年からは、文科省の地域を対象とした科学技術振興プロジェクトに参加させていただいた関係で、海外とのつながりよりも、地域の中小企業や鳥取県との接触が増えてきた。その後、2016 年から始まった国立大学の第3期中期目標期間において、全国86の国立大学法人のうち、本学も含め55大学が“地域のニーズに応える研究”の推進に対して重点支援を受けるようになった。本年度からの第4期においても、私自身、地域資源を生かした研究およびそれを社会実装へ展開する試みを行うつもりである。地域での活動は、時間がかかることが多いのを実感しつつも、微力ながら感触が掴めつつある今日この頃である。以上、振り返ってみれば鳥取へ赴任してから、前半は海外へ、後半は地域へ目を向けた研究を行ってきたことになる。

最後になるが、地方大学の学生さんの就活について……地方大学ではどうしても移動のデメリットがあり、4年生と博士前期2年生は春先から夏場にかけて研究活動が停止することが常であった。しかし、コロナ禍により企業による選考の初期段階の大部分がオンライン開催になった。もちろん、オンラインであれ面接対策に時間は要するため、学生さんは研究室に来ていても実験の手が進まないことが多いが、関西圏、首都圏に移動する必要がなくなったので、この時期の研究室の様子はかなり変わったと思う。コロナ後も、是非この形式での選考が続くことを望んでいる。
そして、入社後のポストコロナの時代では是非海外へ目を向けた行動をしてほしいものである。

1) 大城 隆:生物工学,98, 259 (2020).


著者紹介 鳥取大学 研究推進機構 未利用生物資源活用研究センター(センター長)
鳥取大学 工学部 化学バイオ系学科(教授)

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