生物工学会誌 第100巻 第3号
中濱 一雄

京都市の比叡山西麓に紅葉と霧島つつじで名高い曼殊院がある。門跡寺院であるため格式が高く、築地塀に5本の横線があるのはその証である。その境内に微生物を供養するための「菌塚」がある。

今から約40年前に、食品用・工業用酵素を製造・販売していた大和化成株式会社の取締役社長であった笠坊武夫氏は、社長退任を機に「人類のため多大な貢献をし、犠牲となった菌類に感謝し、また供養する」ため、菌塚を建てることを思い立った。菌塚の建立について相談を受けた発酵研究所の長谷川武治所長は、発酵研究所の理事で発酵・醸造学の世界的権威であった坂口謹一郎東京大学名誉教授を笠坊氏に紹介した。

菌塚は自然石の石碑で坂口名誉教授の揮毫による「菌塚」の題字が彫られている。1981年5月16日に菌塚の除幕法要が行われ、多くの関係者が参列した。その後、曼殊院では毎年5月に法要を行っていたが、知名度が低く、参列者は少なかった。

2013年5月に曼殊院の松景崇誓執事長から「久しぶりに多くの方に参列していただいて菌塚の法要をしたいので協力してほしい」との依頼があり、発酵研究所が全面的に協力することになった。2014年5月26日に33年ぶりに盛大な法要が執り行われ、雨天にもかかわらず、大学や企業の微生物研究者および京都大学の大学院生・学生を含めて約100名が参列した。法要の願主は菌塚を建立した笠坊武夫氏のご子息である笠坊俊行氏。法要は当院の藤 光賢門主の読経から始まり、参列者の焼香で滞りなく終了した。菌塚は微生物の「供養塚」であるが、この下に枯草菌の遺灰が納められていることから「お墓」でもある。

このようなものは外国にはない。おそらく欧米人には理解できないであろう。これは次のような宗教観の違いによるものと思われる。日本では古来「万物に魂が宿る」とあるように、すべての生き物には人と同じく命があると考えてきた。この生き物には、当然、微生物も含まれる。一方、キリスト教の聖典である旧約聖書の創世記に「すべての草、すべての木、すべての生きて動くものはあなたがたの食物となろう」とあるように、欧米では「人間以外の生き物は人間のためにある」と考えるので、これらを供養することはあり得ない。同じ創世記のモーセの十戒には「あなたは殺してはならない」とあるが、これは「人を殺してはならない」という意味である。一方、我が国の支配的な宗教である仏教の五戒にある「不殺生戒」では、あらゆる生き物を殺してはいけない。この生き物とは、人間は当然のこととして、動物、植物および微生物も含まれる。

このようにモーセの十戒よりも仏教の五戒のほうが厳格に思える。しかし、人間が生きていくためには、生き物である動物、植物、微生物を食べることは避けられない。五戒は「これらの生き物を食べる(殺す)ことはやむを得ないが、そのかわり、これらに対して贖罪の思いをこめて感謝することが大切である」と教える。五戒の「不殺生戒」の意味を理解すると、菌塚が建立された趣意がよくわかる。私たちは納豆や漬物を食べることによって、枯草菌や乳酸菌を殺すことになる。醸造や発酵工業では、発酵生産が終わると殺菌・滅菌する。微生物を扱う大学の研究室では、実験後には微生物をオートクレーブで滅菌することが義務付けられている。このように、食品、生産、研究など人類にたいへん役に立ち、犠牲となった微生物に感謝するために、この菌塚がある。京都大学では発酵関係の講義で菌塚について説明し、大学院生・学生に参拝させている。素晴らしいことである。

微生物を扱う研究者には、「よい研究ができるのは微生物のお蔭である。ありがたい」と微生物に感謝するとともに、研究で得られた貴重な微生物株を死滅させないよう大切に保存することを心掛けていただきたい。微生物をこよなく愛し、大切にしてほしい。


著者紹介 公益財団法人発酵研究所(理事長)

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