【随縁随意】若手研究者・技術者の人材育成について思うこと – 奥村 康
生物工学会誌 第89巻 第1号
副会長 奥村 康
Nature, 466,19 August(2010)にMarc Hauser(Harvard大学)のデータ捏造に関する記事が掲載された。またかである。Evolutionary psychology領域のセレブリティであった人物だけに影響は大きく残っているそうである。被害者は大学やグラントを出していたNIHであろうが、最大の被害者は彼のラボで学位を取った、あるいはポスドクを経験した多くの若手研究者と言えよう。これまでも大学の研究室などにおいてしばしばデータ捏造や不正経理が明らかにされているが、そのような行為は当時者一人が科学界から消えるということだけで済むわけではない。そこに在籍した者、特に若手研究者に対して責任の取りようがない影響を及ぼす。競争的資金獲得や自分の地位保全や向上のためにデータ捏造を含めた不正行為は、世界中で昔も今も発生している。
「石川や 浜の真砂は 尽きるとも 世に盗人の 種は尽きまじ」である。研究活動の目的は研究成果を出し最終的に社会に還元することであるが、それだけではない。研究を通して次世代を担う人材の育成が研究成果と同等、あるいはそれ以上に重要な目的である。研究を主導する者には、いわゆる“メンター”としての役目を果たすことも求められているのである。
では、人材とは何か。このところ“企業で求める人材”がいないということを産業界の方から伺うことが多い。企業、あるいは社会が経験の浅い若手の研究者、技術者に期待していることは何かといえば、問題を見つけ自分で調べ考えることの素養であって、大学で教わる初歩の知識や技術ではないだろう。自己学習する能力、それを継続する能力が求められているのである。人はその組織のレベルまでは育つ。それ以上に育てば組織から巣立っていくことになる。組織に所属している人のレベルを引き上げることが、その組織の若手を育成する必要条件である。
いかなる組織においても、若手の手本となる憧れの人材がいること、加えてその方の処遇が見合ったものであれば放任していても先に述べた素養のある若手なら間違いなく育つ。単に技術・スキルが高度ということではなく、考え方や実行力、広い見識、日々の努力などが高いレベルにある人材が傍にいることが必要なのである。人材育成とは、真のプロフェッショナルの傍にいて討論やアドバイスを受けることを通して正しい刺激を受けさせることである。免疫応答のように刺激があればnaïveである若手は活性化し成熟するのである。
若手研究者の基礎を作る段階の大学では、どの研究室も研究資金を獲得するために日々ご苦労されている。
インパクトファクターの高い雑誌への論文投稿を可能とする研究や時代に合った課題を選択されている。それを否定するものではないが、時間や効率を重視するあまり教育・指導といった点が聊か手薄になっているのではなかろうか。結果を出すことを急ぐばかりに、考えることを求めず指示されたことを実施することだけを若手に要求してしまっているのではないか。考えるという習慣を軽視することは、人材育成の立場から絶対に避けなければならない。社会が必要としている人材とは、自分の座標軸を持ち自分で考え学習する力を持った者である。大学は、若手に時間はかかっても自ら問題を見いだし自分で考え解決するという習慣をつけさせることに努めていただきたいものである。
最後に育成される側に立って考えてみたい。誰しもそうだが、特に若手にとっては自分が取り組んでいることや考え方が評価されることが重要で、自信もつくし努力する原動力になる。F. HerzbergやA. H. Maslowが提唱しているように自己実現の欲求が満たされることが成長するために必要である。もちろん、その前に健康や生活の不安がないことなど欠乏欲求を満たしておかなければならない。
大学は研究機関であると同時に教育機関であることを再認識し、人材としての基礎を築いていただければ幸いである。閉塞感のあるこの時期こそ、産学で力を合わせ人材育成に注力しようではないか。本学会もその一助となるよう活動していきたい。
誤解・曲解を恐れずに私見を述べた。年寄りの繰り言としてご容赦願いたい。
著者紹介 鳥居薬品株式会社(開発企画担当・顧問)