生物工学会誌 第88巻 第3号
室岡 義勝

まだ助教授時代の若かった頃のこと。米国の研究者仲間(といっても初めて会ったのだが)の教授から大学での講義依頼を受けたことがある。アトランタから車で1時間ばかり走った大学街のアッセンスのジョージア大学で講義を行った。その後、この田舎町のレストランで食事をとった時、隣のカウンターに腰かけていた街のおじさんが、うさんくさげに私を見た。教授はすかさず「この人は日本から来たサイエンティストです」と、おじさんに私を紹介した。おじさんは一瞬驚いた顔をして「何と若いサイエンティストですね。この街はめてですか?」と愛そうが良くなった。

私はサイエンティストといわれて面映ゆかったが、サイエンティストは裁判官と同じように特殊な専門職として尊崇を集めていることに初めて気がついた。そういえば、米国だけでなく日本以外(?)どの国の人でもそうである。国際線の飛行機で乗り合わせた隣の人にはまず挨拶することにしている。職業までは紹介しない。話が進んで「国際学会からの帰りです」ということになると、必ず「何が専門ですか?」と聞かれる。この東洋の貧相なおじさんが、バイオとか遺伝子工学をやっている科学者だと知ると、おばちゃんまでが「最先端ですね」と尊敬をこめて感嘆される。たいていの場合、会話はここで終わる。科学者とこれ以上何を話していいかわからないから。

日本人は、控え目を美徳とし、あまり自分のことを学者とか科学者とは言わない。科学者の代わりに研究者であると自分を紹介する。しかし、研究者と科学者は違う。科学者は世の中の科学技術についての深い知見と洞察をもち、国を超えてそれぞれの専門分野で責任を背負っている。だから、世界のどこでも尊敬されるのである。

職業に貴賎はないことは観念的に分かってはいるが、性別や生まれのように自分で選択できないものと、職業のように自分の意思や努力で選択できるものとは違う。後者の意味において、日本は極端な平等主義社会であり、科学者も大学教授も一般労働者と収入も扱いもあまり変わらない。これは、昔から学者たるもの清貧に甘んじることを潔しとする朱子学的思想からきたものであろう。我が国の研究者の社会的地位が高くないのは、一方で研究者自身が科学者として重要な責任を負っていることを自覚しなかったからでもあり、科学者が国の教育・文化・科学政策に対して積極的に提言してこなかったことにもよる。欧米の科学者の多くは優秀なロビイストでもある。

私たちは、研究者から科学者に脱皮し、次世代に続く国の科学政策や地球の未来に責任を負って、堂々と提言することを始めよう。そして、自分の職業は「科学者」であると自信を持って自己紹介しよう。当然ながら、こうした科学者の集まりである学会は、社会に対して影響力のある良きオピニオンリーダーであらねばならない。


著者紹介  広島工業大学健康情報学科 (教授)

 

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