生物工学会誌 第88巻 第2号

清水 健一

最近、ワインの世界で「テロワール」という言葉が広く使われるようになっている。「Mediterranean」、「Territory」などと同様にラテン語の「Terr(土地)」を語源とする言葉で、「土地の環境」を意味するが、ワインに関連して使用される場合は、「ワイン用ブドウの品質に影響を与えるブドウ栽培環境」と定義するのが妥当であろう。ワイン用ブドウVitis vinifera は、中央アジアカスピ海周辺の乾燥地を原産地とすることから、水分の極度に少ない乾燥環境を好む傾向がある。それゆえに、テロワールのもっとも重要な要素は土壌、気候、立地ということになる。

良い品質のワインになるためには、ブドウの根の活発な呼吸が重要であることから、ワイン用ブドウ品種は根の酸素要求度が非常に高い。生育期に降水量が多く土壌の排水性が悪い場合には、土壌水分量が多くなり、その分、根圏周辺の空気が減少して根が酸素不足状態になる。したがって、生育期に降水量が比較的多いフランス、イタリアなどを含む地域においては、土壌の排水性の良いことがブドウの生育や品質を維持するために重要となる。また、微妙な排水性の相違で、そこに適する品種が異なる(例として、メドックにはカベルネソービニヨンが適し、それよりわずかに排水性の悪いサンテミリオンではメルロが良いなど)。

根の呼吸と同様に、あるいは最も重要な要因は光合成である。真核生物が18 – 20億年前にラン藻を取り込むことによって獲得したこの機能が、ワイン用ブドウのべレゾン(着色期)以降の成熟過程(ブドウの老化過程)で充分に発揮されることで良質なワイン醸成につながる。このことは、ワインの味、香りの生成が光合成によって合成されるブドウ糖に端を発することを考えると当然のことではある。光エネルギーを極力多く吸収するために、日照時間が長い地域、南向き斜面の畑が望ましい。

気温も、水分蒸散防止のために気孔が閉じない範囲では高いほうが良い。日中に光合成によって合成したブドウ糖の、夜間の呼吸による消費を最小限にするために、昼夜の気温差が大きい(昼は高温で光合成が活発、夜は低温で呼吸が不活発な)地域、すなわち盆地や谷が望ましい。さらに言えば、礫は排水性が良いばかりではなく、細かい土に比して比熱が小さく、昼間は日光で速やかに温まり、夜は急速に冷えるため、礫を多く含む土壌が適している(夜間の低温は、ブドウ果実の成熟を促進する老化ホルモンであるアブシジン酸誘導のためにも重要)。

日本は生育期降水量が非常に多く、土壌の排水性が悪いため、ワイン用ブドウの栽培が非常に困難であり、かつブドウの病原菌であるカビの増殖に適した環境も加わって、良いワイン用ブドウを得るためには多大な努力とコストを要する。また、ピノノワールなどのように、果皮が弱く果実内の水圧で果実が破裂しやすい品種であるがゆえに、日本で栽培不可能または困難な品種も枚挙にいとまがない。

テロワールには恵まれないものの、生物工学の側面から見ると、日本には清酒、焼酎を歴史的背景とした世界最高水準の微生物利用技術、醸造技術が存在する。最近では、醸造業界の夢の一つであった液体麹(呼称:潅水麹)技術もアサヒビールの研究者によって確立された。加えて、実用酵母の育種に関しても世界をリードする研究成果がワイン、清酒、焼酎、酵母エキスなどの分野で発表され、さまざまな細胞融合株、突然変異株が実用化されている。

どちらかというと欧州、特にフランスワインの模倣に終始してきた我が国の国産ワインは、今後の市場での伸張を期待するのであれば、テロワールを克服し、独自性のある方向を模索すべきと考える。成功例として、酵母および醸造技術を駆使した国産の亜硫酸無添加ワインは一定の市場を形成している。原料用ブドウの品質の重要性は充分に認識しつつ、生物工学的手法、独自の醸造技術を駆使した日本独自のワインの確立が急務である。

近年、赤ワインの渋みを担うプロアントシアニジン類に関して、果皮、種子における分布、構造と渋みの質の関係、ブドウ成熟やワイン熟成中のフェノキシラジカルによる構造変化などが明らかになりつつある。実用ワイン酵母の育種ターゲット、さらには、新しいワインの醸造プロセスを考える上できわめて興味深い。

最近の生物工学系の研究テーマをみると、遺伝子関連が圧倒的である。遺伝子研究の重要性を否定するつもりはまったくないが、微生物や自然界からの新たな物質の探索、醸造などの古くからある技術に関連した、研究者として心身ともに鍛えられる泥臭いテーマが急速に減少している現実には寂寞の感がある。若手研究者の皆様には果敢なチャレンジを期待したい。
 


著者紹介 アサヒフードアンドヘルスケアー(株)調味料事業本部(担当部長) 

 

►生物工学会誌 –『巻頭言』一覧