【随縁随意】魅力が失われつつある職業研究者についての独り言 – 鎌形 洋一
生物工学会誌 第87巻 第10号
鎌形 洋一
今バッハのパルティータ(組曲)を聴きながらこの文章を少しずつ書いている。というと趣味的な話で恐縮であるが、バッハが300年近く前にチェンバロのために書いた楽曲である。最近この曲をピアノで演奏している演奏家が多いが、ピアノで弾くバッハは何という美しさと表情の豊かさだろう、とつくづく思う。チェンバロのややもすれば耳障りな固い金属音で聴くバッハと比べ物にならないくらいのダナミックレンジと陰影で表現される世界はまったく異次元である。
バッハの時代はピアノの原型が出現したばかりであるが、現代のピアノの出現を予見し、その音を想像してこれらの作品を書いたとしか思えない。それくらい、ピアノが紡ぎだすバッハの音の世界は魅力的なのである。バッハは一時期人々から忘れ去られたが19世紀に復活した。そして今日に至るまで綿々と弾き継がれ、聴き続けられている。遺された音符が、何百年の間、表現様式を変えながらも人々の心をなお捉えてやまない。
そんな音を聴きながら、ふと私達のような研究者が生み出すものは一体どれだけの賞味期間を持つのか、そしてそれはある意味において芸術足りうるのかと考えると忸怩たるものがある。そもそもバッハと瑣末な自分の研究とを比べること自体きわめて愚かしい。しかし、かつて、レオナルド・ダ・ヴィンチの世界は芸術と科学と工学が一体だった。
“最後の晩餐”や“モナリザ”とともに数多く遺されている解剖学や数学や工学の研究も一人の人間によって成し得たものである。あくなき探究心と好奇心と技術、そして努力がそれを実現させたのである。アントニ・ファン・レーウェンフックも一人で顕微鏡を作り、あらゆるものを観察し、その内容を日記やロンドン王立協会に遺している。たくさん作った顕微鏡のうち最もお気に入りのものは誰にも見せなかったという。一人でコツコツと何かを探求することが研究の主流だった時代、その行為そのものが一種の芸術を生み出す行為に似ていたと言える。
何かが生まれる時もあれば何も生み出さなかったこともあり、それらはすべて一人の世界での話であった。そんな人種がこの十数年の間に絶滅危惧種となりつつある。選択と集中、社会貢献、国民への説明責任、評価、目標達成度、費用対効果、産学連携、知的財産、そういう言葉で科学技術は語られるようになった。ノーベル物理学賞を受賞された小柴昌俊先生がニュートリノの研究は何に役立つか?と新聞記者に問われたとき、何の役にも立ちません、と言われたと聞く。ニュートリノ計画も有識者による事前評価が最低だったとおっしゃっていた。何の賞も功績も挙げていない研究者が自らの研究を何の役にも立たんです、と言ったらどうなるか? その結末はあまりに自明だろう。
今、研究を志す若い人たちは、ポスドクとしてのみならず、身分保障期間が数年の特任教員や任期付研究員として成果を短時間に求められる世の中になった。生物学やバイオテクノロジーの分野においても多くのパラダイムシフトをもたらす発見があった。それは芸術やプロスポーツほどではないにせよ多くの人々の心に刻まれてきた。しかし、今その時代は終焉を迎えようとしている。これからも画期的な発見や発明がなされてゆくであろう。しかし、科学と科学を生業にする環境があまりに変容し過ぎた。知的好奇心の発露と成就だけで科学は成り立たないし、科学を行うためにはあらゆる非科学的な手続きが必要な時代である。一人でコツコツ誰にも見向きもされなくても自分で満足を得ることですべてが完結していた時代を懐かしむつもりはない。ただ、多くの人が職業研究者になってみたいと思える時代が終わったことは確かである。いや、正確に言えば、こんなに職業研究者がいる時代自体がおかしいのかもしれない。
著者紹介 産業技術総合研究所ゲノムファクトリー研究部門(研究部門長)