【随縁随意】断想:五十年は一昔 – 左右田 健次
生物工学会誌 第87巻 第9号
左右田 健次
歌舞伎の「熊谷陣屋」に、わが子を若き敵将、平敦盛の身代りに死なせた熊谷直実が「16年は一昔。ああ夢だ、夢だ」と呟いて、花道を去る時の有名なセリフがあります。私が微生物のアミノ基転移酵素を対象にして、京都大学で研究の世界に入った1956年から50余年、直実の一昔の3倍を超す歳月が流れました。当時、生物工学や分子生物学といった言葉もありませんでした。酵素液の透析はセロファンで行い、グルタミン酸などを別として、少し特殊なアミノ酸は、Greenstein とWinitzの“The Chemistry of AminoAcids”を参考にして合成し、ブタ腎臓のL-アミノアシラーゼで光学分割して調製しました。この本と、後年購入したA. Meisterの“Biochemistry of Amino Acids ” は生涯、座右の書となりました。
1957年、日本で最初の生化学分野での国際会議として国際酵素化学シンポジウムが東京と京都で開かれました。論文で名前を知っている海外の名だたる研究者の講演が聞けたのは、研究者の卵にとって、大きな刺激になりました。その翌年、オキシゲナーゼの発見で知られた早石修先生が米国のNIHから京大医学部医化学教室に移ってこられました。医化学教室のセミナーは学内外を問わず自由に参加でき、討論の激しさは今も耳に残っています。渡辺格先生が東大から京大ウイルス研究所に来られ、木原均先生門下の由良隆先生や小関治男先生が活躍され始め、のんびりムードの京大にも活気が出てきました。この頃、素粒子論の湯川秀樹先生が渡辺先生や発生学の岡田節人先生などと語らって、学内に生物談話会を作られました。湯川先生が、「これからは生物科学の時代であり、孤独を恐れないで未知の生物の世界に挑むように」と、物静かに話された言葉は胸を打ちました。今の生化学や生物工学から往時を想うと、隔世の感を覚えます。ここに自らを省察しつつ、若い研究者への思いを二、三、記します。
山岳部で登山に明け暮れした頃、先輩から、(1) 対象の山を決め、隊を編成してルートを探し、トレーニングに励む準備の段階、(2) 実際に山や岩に登る段階、(3) 山から帰って、報告会で山行の報告や討議をし、登山記録をまとめて次の登山に備える段階、はいずれも同じ重要性をもつと教えられました。研究においても同じことが言えると思います。グループのリーダーがまず心血を注ぐべきは研究テーマの選定です。よきテーマとは何か。難しい問題ですが、学会や論文などで、次のテーマを常に心にかけていなければならないと思います。敬愛する有機化学の大先生が、「普通の研究者は、今、何が研究されているかを知るために、論文を読み、講演を聞くが、一流の研究者は、今、何が研究されていないかを知るために、読み、聞く」といわれたことがあります。研究対象に向う道も、山登りのルートと同様にいくつかあり、対象の程度と自分の実力や研究環境を勘案しながら、試行錯誤を重ね、先達に教えを請い、十分な準備の上に次第に目的の頂に迫るのは研究者の苦しみでもあり、醍醐味でもあります。
研究結果を論文にする過程もまた、苦しみと楽しさの入り混じった道です。英語で論文を書くのが一般的になっていますが、英語で書くのが難しいのではなく、合理的に結果と論旨を展開して、読み手に理解させることが難しいのです。自然科学の論文の英語は高校1年か、2年のレベルです。仮定法過去完了形を使った論文は見たことも、書いたこともありません。論理は日本語でも英語でも同じです。良き論文には、次のステップへの示唆が含まれています。また、言語の感性を会得するために、小説や随筆を読むことも大切です。早石先生から、英米に行ったら、彼の地のベストセラー小説を読み、立原正秋などの文章の美しい小説を読むように勧められました。Meister先生からは、ドイツのG.グラスの小説の英訳は平明だからと勧められたこともありましたが、怠惰な私は実行しませんでした。日本人の苦手な方法論や新しい研究試料の開発も望まれます。基礎を忘れても、惰性的な研究はできるでしょうが、大きな飛躍は難しいと思います。分子量にDa(本当はドルトンでしょうが)を付けるような論文が散見されるのは残念です。また、生物工学の研究者が生命を支える水の構造や溶液論にも関心を持ってほしいと念じます。
著者紹介 京都大学名誉教授