生物工学会誌 第87巻 第8号
佐々木 健

「水と生きる」というのは有名なバイオ企業の企業メッセージだが、約170年前、天保11年ごろ、西宮から灘(神戸)へ、牛車で大量の水を樽に詰め運ぶ、「水に生きる」人たちがいた。それを見た当時の人々は、タダの水を金をかけて遠方に運ぶなど愚かな、とあざ笑ったという。この荷主、山邑太左衛門(山邑酒造)は、西宮と神戸に蔵を持っていたが、いつも西宮の蔵の酒が芳醇で酒質がよいことに気づいていた。米や杜氏を変えてみたが結果は変わらなかった。そこで、西宮の水をわざわざ金をかけて運んで醸造したところ、神戸でも西宮と同じような芳醇な酒ができたのである。有名な醸造用名水、宮水発見の逸話だ。以後、西宮から大量に水を運ぶ水車や水舟が大繁盛し、「水屋」という真の水の商売、いわゆる「水に生きる」人々が多く生まれたのである。

ここからは歴史書にない私の仮説であるが、太左衛門は「きき水の名人」であったのではないか。舌で、西宮の中硬度水(硬度約100 mg/l)と神戸の軟水(多分硬度30 – 40)の違いを認識していたのだろう。おそらく、微妙な感性の持ち主のバイオ家であったからこそ、大金をかけ、嘲笑を気にせず水を運んだに違いない。

優れた企業家は研究者と違い、好みや興味で大金は使わないからだ。確信があったのだろう。私自身は生物工学の技術士だが、きき水のプロを自認しており、中硬度水と軟水の違いはきき水ですぐ判る。酒を飲みすぎていない体調のいいときは(めったにないが)、水を舐めれば硬度や有機物、炭酸など分析値が頭に浮かぶ。40年の経験と修練のたまもの。よく、曲を聴くだけで音符が浮かぶ「絶対音感」をお持ちの音楽家がおられるが、私は「絶対水感」といい、舌で分析値までおおまかに識別できた。太左衛門も同様にきき水のプロだったと、技術士として思えるのである。このような感性は主に経験、教育、修練で生まれると私は思っている。

この「絶対水感」が大いに役立った事例がある。広島に電磁鍋が広まり始めた7–8年前、技術相談を受けた。電磁鍋を納入された有名店の板前さん(テレビで有名な料理人)が「味が乗らない。これはだめだ」というのである。困った技術営業は、食品専門の大学や研究所、つくばの研究所まで相談に行ったが理由がわからない。途方に暮れ私のところに来た。私と院生は電磁加熱の水を舐め、両名直ちに水の硬度が上がっていると鑑定した。長期間の不明、困惑の原因が2名の舌ですぐ分かったのだ。「二枚舌」だが本当の話。この院生も初めは水道と湧水の識別もできなかったが、長くきき水の修練をさせていた。

原因は以下のとおりだ。広島の軟水だとよく素材のダシが出るが、中硬度水や硬水だとダシが出にくい。豆腐ににがりを入れ固める理屈(塩析)で、ダシの表面タンパク質が固まりアミノ酸やペプチドが出にくくなり、味が乗らないのである。問題はなぜ電磁鍋だと硬度が上昇し、通常のガス加熱だと上昇しないのか。これを2年かけ解明した。電磁鍋は従来にない急速加熱なので、水が激しく運動し、鍋表面に付着した水アカが剥離することが多く、一方、ガス加熱では対流によりゆっくり加熱されるので、水アカの剥離が加熱中きわめて少ないことを解明した1)。結局、鍋表面に特殊処理を施し、水アカ付着を防止し解決。その改良電磁鍋は好評という。

典型的バイオプロセスである酒の醸造ばかりでなく多くの食品加工においても、用水の水質の微妙な違いが製品に影響していることが知られつつある。まさに「水が製品を左右する」時代なのだ。消費者嗜好が高級化しつつあるからである。これからのバイオは感性が必要と思う。

発酵でも用水中の0.05 mg/l程度の微量の鉄分の存在で、目的生産物の質、量が思わしくない事例もある。中国に進出した日本のバイオ企業が、軟水器で硬度さえ落とせばよいと軽く考えて工場を新設したが、微妙なミネラルバランスやその他の成分で、製品が日本のようにできないという話をよく聞く。化学的な分析に加え、水の色、テリ、触感などの微妙な違いやきき水などの総合的な感性が用水の良否判断に必要ということだろう。

最近のバイオの教育を見ていると、コンピュータや遺伝子技術が進歩して、感性の育成がおろそかになっている気がする。培養の時、菌の増殖、成分変化のデータをチェックするだけでなく、培養液の色、匂い、濁り具合、流動性など、五感をすべて使っての細かい観察をする姿勢も、感性育成には必要と思う。学校や企業の教育研修でも、昔の機器のない時代を思いかえし(温故)、基本的な分析や培養実験を繰り返し、五感を育くみ、感性で乗り切る教育(知新)も、これからの高度な技術を要求されるバイオ技術者育成には必要ではないかと、最近、水と酒を舐めつつ思うのである。


1) Sasaki, K. et al.: Int. J. Food Sci.Technol., 41, 425 (2006).
著者紹介 広島国際学院大学(教授、地域連携センター長)

 

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