生物工学会誌 第87巻 第3号
森永 康

昨年来の金融危機は、各方面に計り知れない影響をおよぼしてきた。100年に一度の事態とも言われ、米国中心の資本主義経済の根底が問われている。経済不安や雇用不安が高まり、これからの社会がどのように変化して行くのか、不確実な中で誰もが強い不安を感じている。こうした社会の不確実性は実に困ったものだが、こと研究に関しては不確実なことは日常茶飯事である。

研究というのは、要は、やればできることをやるのではなくて、できるかどうか分からないことに取り組むわけで、本質的に不確実性をもっている。不確実性の中から可能性を見いだし、新しい原理原則を導き出すのが、研究の要諦ではないかと考えられる。

ラインホルト・メスナーという登山家がいる。たった一人で、酸素ボンベの助けを借りずに、人類初のエベレスト無酸素単独登頂を達成した。彼は「不確実なことにこそ挑戦する価値がある。最初から成功が約束されていたら人生の全てをかけることなどできない」と言っている。命を懸けて前人未到のことを成し遂げるというほど大げさでなくとも、メスナーの言っていることは研究にも当てはまるように思う。

長年企業の研究開発に関わり、2年前から大学での研究に携わって感じるのは、この不確実性に対する許容度の違いである。企業の研究開発では、経営的観点から研究開発投資の採算性が常に問われる。したがって予算を認めてもらうために、確実性の高い目標を設定し、達成時にもたらされるであろうメリットを明らかにする必要がある。多くの企業で目標管理制度が導入されており、成果目標の達成が個人目標となっている。つまり、不確実な目標では予算も獲得できないし、個人の査定にも響くことになるので、どうしても不確実性に対する許容度が小さくなりがちである。

これに対して、大学の研究では、たとえ目標達成の見通しが不確実であっても、目標と異なった結果になろうとも、結果が出て一流誌に論文が掲載できれば、まずは成功。その結果が社会に役立つ成果につながれば大成功。結果良ければすべて良しで、不確実性に対する許容度が大きい。
こうした不確実性に対する許容度は、当然のことながら研究のステージによっても異なる。基礎段階は投入資源が小さい限りは許容度が大きく、開発段階は必然的に投入資源規模が大きくなるので不確実性に対する許容度が小さくなる。

科学技術の開発にはシーズ発掘からはじまって実用化までに不確実性の度合の異なるいくつかのステージがあり、これらのステージのどこかで壁を乗り越えられないと実用化には到達しない。しかし、何といっても重要なのは、もっとも不確実性の高いシーズ発掘段階であろう。シーズが発掘されないと何事も始まらない。産学連携も研究の不確実性への対処手段だと考えると分かりやすい。不確実性の高い基礎段階は大学が担い、確実性の高い開発段階を企業が担うのは合理的である。

ここで気になるのは、最近大学の研究資金の中で競争的資金の割合が著しく増大している点である。競争的資金では多くの場合、企業研究と同様に成果目標を明確化し確実に達成することが求められ、不確実性に対する許容度が小さくなりがちである。不確実性に耐えてシーズ発掘すべき大学が、研究費稼ぎのために不確実なことを敬遠してしまうと、長い目で見ればシーズが途絶えてしまうことになり、大きな問題となる。

特に若い研究者が安全志向になり、やれば必ず結果が出るような研究ばかり志向するようになると、新しい発見につながるような研究ができなくなってしまう。科学技術立国を標榜する我が国としては、不確実であっても可能性を信じてチャレンジする若手研究者を数多く育成して、優れた技術シーズを数多く創造することこそが大切である。そのために、企業における基礎研究や公的な競争的資金にもとづく研究のマネージメントは、不確実性に対してもっとおおらかになっても良いのではないだろうか。

「不確実にこそ新たな可能性あり」。前人未到の世界はここから切り拓かれるのだと思う。


著者紹介 日本大学生物資源科学部(教授)

 

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