生物工学会誌 第87巻 第2号
加藤 暢夫

源氏物語千年紀と日本人科学者によるノーベル賞受賞は、文化・学術の領域で2008年に最も話題になったことであるが、その両者に共通している点は「日本語と外国語との関わり」にあるように思える。源氏物語は美しい日本語で書かれており、18カ国語に翻訳されているという。しかし、当時は和魂漢才といわれ、宮中では漢籍を最高の教養とし、紫式部の漢籍に対する高い素養なくして源氏物語は成立しなかったと言われている。一方、ノーベル賞受賞で特に新聞紙上を賑わした話題は、益川俊英博士の英語嫌いであった。しかし、益川博士は南部陽一郎博士の英文の論文をなめるように読んだとのことで、英語の素養は科学者にとって必須であることはご本人も強調されている。大切なことは和魂洋才ということにあるようだ。

英語が苦手な筆者が特に関心を持ったのかもしれないが、「ノーベル賞を支えた日本語」という新聞記事(京都新聞2008年12月18日付け朝刊)まで出現した。その中で、柳沢浩哉氏(広島大学)は、膨大な外国の用語を和製漢語に翻訳する過程の重要性を指摘されている。さらに、漢字熟語には意味を一瞬にして読み取り、発想や想像が膨らむところがある、と説明している。この指摘には、科学の領域だけでなく日本語でものごとを考えることの特徴を示しているように思える。和魂漢才にしろ、和魂洋才にしろ、日本の文化は常に翻訳という過程を通して成立してきた。この過程は一見無駄なように見えるが、ものごとの本質がわからなければ、よい翻訳とならないことは確かであり、そこに日本独特の科学が芽生える栄養があるように思える。

生物工学の領域で言えば、昆布の主要な呈味成分がグルタミン酸ナトリウムであることを池田菊苗博士が発見してから100年が経った。その発見から約半世紀を経て、Corynebacterium glutamicumを用いたグルタミン酸発酵技術が創出され、次いで、リジン発酵に代表されるような代謝をコントロールして目的物質を生産する制御発酵という手法が開発された。取得した変異株のアミノ酸生産性を説明するために、大腸菌の代謝調節機構に関する欧米の最新の知見が活用された、と聞く。横関健三氏(味の素株式会社)が本誌(86巻493頁)に、日本独自の実学における独創性について述べておられるが、アミノ酸発酵はもとより、そこに挙げられている多くの技術の独創性の源は微生物探索にあり、さらに近代科学を駆使した分離菌の潜在能力の向上にある。言ってみれば「和菌洋才」の結果である。

本会の会長でもあった福井三郎先生(京都大学工学部)は、海外では、ご自分の研究に加えて日本の発酵技術の紹介をされることが多かったと伺っている。筆者も1986年にドイツで一度拝聴したことがあったが、先生は日本地図のスライドを用いて、日本の国土がいかに気候の変化に富み、微生物種が豊富であるかを説明され、日本の伝統的発酵技術そして当時の先端的発酵技術を紹介された。ご講演の趣旨は、日本の豊富な微生物資源が探索技術の深化を促し、伝統的な発酵技術の理解が新技術を生み出す基になる、といったものであったと記憶している。C.glutamicumの代謝工学の研究で有名なドイツのHermann Sahm教授から、この福井先生の講演を契機に日本の応用微生物学に特に注目するようになったと聞いたことがある。

京都曼殊院に「菌塚」があり、海外の微生物学者が京都を訪れたときに案内することにしている。菌塚は酵素関連の会社を経営されていた笠坊武夫氏が「菌恩の尊さ」を形にして建立したものであるが、西洋の科学者にとっては、日本の応用微生物学のレベルの高さは理解できるものの、この「菌恩」という思想は禅と同じように難解なようである。しかし、鬱蒼とした杉の木立を背景にして置かれた塚には何か神秘的なものを感ずるようで、緊張した面持ちで塚と対峙してくれる。この菌塚建立に際して、応用微生物学を代表する研究者の方々が感想を述べられておられる(http://www11.ocn.ne.jp/~kinzuka/)。その中で山田秀明先生は、「学問を進めてゆく過程で、ややもすれば自らの利害や得失にとらわれて、微生物を研究の道具としてのみ考えがちであり、われわれが微生物、そして他の動物や植物と同じように大自然の中の存在であり、ともに大自然の円滑な循環の流れをなしていることを忘れてしまうのである。」という言葉を寄せられている。「大自然の円滑な循環」は西洋の生態学が教えるところであるが、日本ではすべてのものに魂があるという気持ちで微生物に接するところがあり、そこに「菌恩」を感じる素地があるように思える。

翻訳の過程から、原著にはない新しい思想を生み出したものが、日本独自の文化・科学・技術として世界が認めるものになるのかもしれない。


著者紹介 京都学園大学バイオ環境学部(教授)

 

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